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第4回 暁斎の主治医 -ベルツと浅田宗伯-

河鍋 楠美(かわなべ くすみ)

蕨眼科院長、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館理事長・館長


 暁斎の死因は胃がんであった。『ベルツの日記』(岩波文庫版)の明治22年(1889年)4月26日付の記述に、「日本最大の画家キョーサイ(暁斎)は今日はもつまい。胃がんなのだ」とある。まさしくその日のうちに、子どもたちに囲まれ、愛弟子で英国人建築家のジョサイア・コンドルに手をとられ、暁斎は亡くなっている。

 エルヴィン・フォン・ベルツ(1849年~1913年)は、明治政府が維新後、欧米の制度や知識を吸収するためにドイツから招聘したお雇い外国人の一人で、現在の東京大学医学部で教え、実際に医術も施した。このベルツが、暁斎最期の主治医となった。

 ベルツは1905年に日本女性の妻・花子と子どもたちを伴い帰国したが、その際、6,000点もの日本美術コレクションをドイツへ持ち帰った。その中で、ベルツが最後まで大切に手元に残していたという80点が、ベルツの生まれ故郷のビーティッヒハイムで発見された。しかも、その中の19点が暁斎作品であるとの情報を聞き、私はその鑑定のために、平成7年(1995年)に作品を保管していたハイデルベルク大学に直行した。

 19点の内訳は、本画(下絵を描いてから着色して仕上げる時間をかけた作品)が2点、席画(書画会やさまざまな宴席などで即席に描いた早描きの作品)が17点であった。その中のベルツ好みを1点挙げるとすると、席画の「美女の袖を引く骸骨」(図)だろう。

図:河鍋暁斎筆「美女の袖を引く骸骨」席画。暁斎の主治医であったベルツの日本美術コレクションで、最もベルツの好みのものとして挙げられる作品。
河鍋暁斎筆「美女の袖を引く骸骨」
Schöne von Skeletten umringt Inv 93-231 Ausschnitt
ビーティッヒハイム=ビッシンゲン市立美術館
Stadtmuseum Hornmoldhaus, Bietigheim-Bissingen)蔵

 明治の当時、西洋医学の第一人者がベルツであったとすると、一方の漢方医の第一人者に浅田宗伯(そうはく)(1815年~1894年)がいた。宗伯は皇太子(後の大正天皇)の侍医を務めた名医としても知られており、今でも販売されている薬用のど飴の「浅田飴」の製法を伝授したことでも有名である。

 この宗伯が、ベルツと同様に最晩年の暁斎を診察していたことが、暁斎が日々の記録を描いた絵日記によって確認できる。また暁斎が病床に臥す以前の明治13年(1880年)、暁斎は宗伯夫妻の肖像の影絵を描いており、暁斎と浅田宗伯との交流の深さが偲ばれる。

 暁斎は東西の名医と、患者と医師という立場を超えて、つながりをもっていたのである。

著者

河鍋 楠美(かわなべ くすみ)

蕨眼科院長、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館理事長・館長

河鍋暁斎のひ孫。東京大学医学部医学博士。1977年、河鍋暁斎記念美術館を開館。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health No.88

Aging&Health(エイジングアンドヘルス)No.88(新しいウィンドウが開きます)

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