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第2回 暁斎と西洋人―その交流と記録―

河鍋 楠美(かわなべ くすみ)

蕨眼科院長、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館理事長・館長


 明治9年(1876年)に来日したエミール・ギメ(1836年~1918年、後にパリのギメ東洋美術館を創設)とフェリックス・レガメー(1844年~1907年、カメラのない当時、記録のため同行した速筆の画家)の記録は、帰国後の1880年に出版されたギメ著『Promenades Japonaises Tokio-Nikko(日本散策―東京・日光―)』にくわしい。

図1:ギメ著「日本散策─東京・日光─」の巻頭にカラーで示されている暁斎が描いたレガメーの肖像画。
図1:暁斎筆「レガメー像」ギメ著『日本散策─東京・日光─』
河鍋暁斎記念美術館蔵

 その中でギメは二つの章を割いて、暁斎宅への訪問記を綴っている。「決闘」の章では、レガメーと暁斎が肖像画の描き比べをしている様子を描写している。それがこの二図である(図1、2)。その2図のうち、暁斎筆「レガメー像」(図1)は巻頭にカラーで掲載されている。その本文を見ると、ギメは、「日本人は肖像画が描けないと誰がいったのであろう」と書いている。明確に述べてはいないが、巻頭にカラーで示していることから、明らかに暁斎に「勝負あり」である。ただ残念なことに、原画は発見されていない。

図2:ギメ著「日本散策─東京・日光─」の「決闘」の章でレガメーと暁斎が肖像画の描き比べをした際のレガメーが描いた暁斎の肖像画。
図2:リックス・レガメー筆「暁斎像」
ギメ著『日本散策─東京・日光─』河鍋暁斎記念美術館蔵

 このギメの来日以前にも、スイス大使とともに来日したエメ・アンベール(1819年~1900年)などによって、暁斎作品は数多く海を渡っているが、中でも画家として、わざわざ暁斎を訪ねてきた最たる例は、モーティマー・メンぺス(1855年~1938年)だ。明治20年(1887年)に来日して暁斎と会い、写生論を戦わせた彼は、帰国後、「暁斎に学ぶ」という論文を美術雑誌に投稿している。

 そしてとどめは、ジョサイア・コンドル(1852年~1920年)だ。彼は、明治10年(1877年)にお雇い外国人として来日し、現在の東京大学建築学科で辰野金吾や片山東熊(とうくま)らを教えてその礎(いしずえ)を築いたほか、鹿鳴館(ろくめいかん)や上野博物館などの公的な施設を設計。公務から離れた後も、西洋建築のオフィスビルや個人邸宅を建てるなど活躍した。さらには日本文化に多大な関心を寄せ、生け花や庭園の本を出版し、日本で亡くなった(墓所は東京・音羽の護国寺内)。

 コンドルは、日本美術にも関心が深く、明治14年(1881年)頃に暁斎に入門して日本画を学び、その成果を『Paintings and Studies by Kawanabe Kyōsai(河鍋暁斎 本画と画稿)』と題し、1911年に出版している。この書は、コンドルが所持していた暁斎作品のカタログというだけでなく、「不立文字(ふりゅうもんじ)」としてこれまで口伝(くでん)で伝えられてきた狩野派の画法や画材を、文字により丁寧かつ明確に記した点で、美術史上においても大変貴重な書である(後、私が翻訳を自費出版)。

著者

河鍋 楠美(かわなべ くすみ)

蕨眼科院長、公益財団法人河鍋暁斎記念美術館理事長・館長

河鍋暁斎のひ孫。東京大学医学部医学博士。1977年、河鍋暁斎記念美術館を開館。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health No.86

Aging&Health(エイジングアンドヘルス)No.86(新しいウィンドウが開きます)

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