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医療の質向上に看護の底上げを(久常 節子)

公開日:2023年10月14日 09時00分
更新日:2023年11月 7日 13時20分

ひさつねせつこ氏とおおしましんいち氏のツーショット写真。

シリーズ第7回長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして

 人生100年時代を迎え、1人ひとりが生きがいを持って暮らし、長生きを喜べる社会の実現に向けて、どのようなことが重要であるかを考える、「長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして」と題した、各界のキーパーソンと大島伸一・公益財団法人長寿科学振興財団理事長の対談の第7回は、元日本看護協会会長の久常節子氏をお招きしました。

看護を深めるために社会福祉を学ぶ

大島:今回の対談には元日本看護協会会長の久常節子さんにお越しいただきました。久常さんは大阪で保健師活動に従事されたあと、大学で教鞭を取り、国立公衆衛生院に勤務。アメリカ留学を経て厚生省(当時)保健指導室長・看護課長、さらに日本看護協会会長を務められました。久常さんとの出会いは、たしか久常さんが日本看護協会会長になられた頃です。私が東京に会議で出張した際、「辻哲夫さん(元厚生労働事務次官、東京大学高齢社会総合研究機構客員研究員)から大島先生に会いに行きなさいと言われてきました」と久常さんが会いに来てくださいました。

久常:いつも辻さんが大島先生のことを立派な方だとおっしゃるんですよ。あまりにも大島先生のことが話題にのぼるので「いったいどんな人?」と思っていたんです。

大島:光栄です。辻さんと知り合ったのは、私が名古屋大学から国立長寿医療センター(当時)に初代総長として赴任後しばらくしてからです。国立長寿医療センターは高齢者を対象とした病院と研究所が併設された施設です。私はもともと泌尿器科医でしたので、急に高齢者医療に移ることになり、正直戸惑っていました。初めて会った日、辻さんは、今後の高齢者人口の増加の速さ、高齢者の生活を支える医療介護の提供のあり方、在宅医療の役割など、実に熱心に語ってくれました。私は辻さんの話を聞き、「これからの高齢社会に求められる医療に尽力していこう」と腹が決まったんですね。辻さんとの出会いが自分の道を決めたと言ってもいいくらいです。

久常:その様子が目に浮かんできます。

大島:辻さんが結んでくださったご縁ということで、今日はよろしくお願いいたします。久常さんは私と同じ昭和20(1945)年生まれ。久常さんの著書に「土佐の"はちきん"(男勝りな女性)」とありました。お生まれは高知県ですね。

久常:はい。土佐の"はちきん"です(笑)。高知県大津村(現高知市)の生まれです。

大島:久常さんは地元の大学で看護の道へ進みますが、当時、女性は高校を卒業すればいいほうで、大学ましてや大学院へ進学する人はごく少数でしたね。

久常:私が大学院へ行きたいと言った時、父は「親戚中の笑いものになり、嫁のもらい手もなくなる」と言いました。看護を勉強すれば一生仕事に困らないと思い、県立の高知女子大学の看護学科に進学を決めました。卒業する少し前、「自分の看護は中途半端だ」と痛感する出来事があり、もっと深く学びたいと思いました。当時は看護学の修士課程はなかったので看護に近い「社会福祉」を選び、大阪市立大学大学院へ進学しました。

ライフワークとなるコミュニティ・オーガニゼーションとの出会い

大島:そういう経緯で看護学から社会福祉学へ進まれたのですね。この道に進むと決めたら迷いなく進むところが素晴らしいです。大学院ではどういったことを学ばれたのですか。

久常:大学院では岡村重夫先生の指導を受け、修士論文はマレー・G・ロスが提唱する「コミュニティ・オーガニゼーション」(地域組織化活動)を地域で展開し、それをまとめることでした。コミュニティ・オーガニゼーションはのちに私のライフワークとなります。

大島:「福祉のまちづくり」を進める1つの手法ですね。

久常:おっしゃるとおりです。大阪府の千早赤阪村で民生委員や婦人会の役員、老人クラブの会長などに話を聞くことで地域が抱える問題を明らかにしていき、住民たちが問題を解決する力をどう引き出すかに焦点を当て、地域を組織化するプロセスを試行錯誤しました。当時、すでに寝たきりの家族の介護が問題になりはじめていました。

大島:そういった経験が久常さんのリーダーシップにつながっているわけですね。

久常:大学院修了後、1970年に大阪府の保健師になりました。自分から望んで挑んだ仕事はこれが最初です。保健師ほど面白い仕事はありません。今は仕事を引退していますが、もう一度やりたい仕事といったら保健師ですね。富田林保健所の保健師として2年間、その後は、母校の高知女子大学で1年間助手をし、また大阪に戻って門真保健所の保健師となりました。

ひさつねせつこ氏の対談の様子を表す写真。

保健師全体の力を高めていく

大島:「保健師ほど面白い仕事はない」とは興味深いです。保健師の活動をお聞きしたいです。

久常:門真保健所では保健師全体の力を高める活動に注力しました。ある日、リーダー格の保健師が戸惑い、混乱していました。3日前に新生児訪問した赤ちゃんが、その翌々日に亡くなったというのです。訪問時、新生児のミルクの飲みが悪く、身体や首の周りがやわらかくておかしいと思ったけれど、原因はわからないまま「もし何かあったら病院に行くように」と言い残して帰ってきたそうです。彼女はベテランですから余計に自分を責めたんですね。私は「もう一度訪問して、何が問題だったのか把握することが大事なのでは」と彼女に言いました。その言葉を受けて、彼女は弔問に伺い、家族から話を聞きました。保健師が帰ったあと、保健師の赤ちゃんに対する様子が気になって、お産した病院を受診し入院させたそうです。病院からは「大丈夫だ」と言われていたのに、入院翌日に赤ちゃんは亡くなったそうです。

大島:病院の処置に問題があったのでしょうか。

久常:総合病院や専門病院だったら結果は変わっていたかもしれません。彼女のすごいところはそれで終わりにしなかったところです。職場の保健師を集めてこう話しました。「私に乳児の障害をみる力がなかったし、地域の医療機関の質も把握していなかったから適切な病院を勧めることもできなかった。しかし、これは私だけの問題でなく、ほかの保健師も同じではないか。保健師全体で考えるべき問題です」

大島:問題を共有して、解決策をみんなで検討していくことは大事です。

久常:そこで保健師全体で乳児の障害に関する勉強会を始めました。座学にとどまらず、産休中の保健師の乳児をお借りして、実際に乳児の神経の発達や反射などを試しました。それからは保健所で行う乳児健診の時に、保健師も乳児の神経反射や股関節脱臼などをみて医療へつなぐ、といったこともありました。

大島:本来は医師が診断する障害ですから、非常に進んだ取り組みですね。

久常:その結果、地域の障害児施設の入所者の年齢が一気に下がりました。早い時期に乳児の障害を見つけるからです。こういった地道な活動によって地域の現状がこれほどまでに変わることに驚きました。月に一度全員で反省会を開き、その中で共通の問題を見つけていく。すると今まで見えていなかった大きな課題が浮き上がってきました。たとえば、何十人もの結核患者の治療拒否の問題に当たりました。治療拒否される方に共通する問題は「医療不信」でした。

大島:なるほど。医療不信だから治療を拒むわけですね。

久常:医療不信であれば最高の医師に出会わせればいい、と考えました。そこで結核研究所から赴任した有能な医師に来てもらい、治療拒否の結核の患者さんに「最高の結核の医師を呼んでいるから、今回だけは保健所に足を運んでほしい」と声をかけました。すると全員が自分のレントゲン写真を持参して保健所を訪れました。医師から適切な説明を受け、ほかの患者さんも共にレントゲン写真をみて、納得して治療を継続したり、終了したりすることができました。門真保健所のあとは福井県立大学の教員になるのですが、保健師の現場を忘れないように、門真保健所での取り組みを『保健婦雑誌』に1年間連載しました(保健婦雑誌32(4)〜33(3), 1976-1977)。

大島:久常さんが挙げてくださった事例は、今でいう「地域包括ケア」だと思います。特殊な病気におけるケアのあり方の話でしたが、今の高齢社会に必要なケアそのものだと感じます。

おおしましんいち氏の対談の様子を表す写真。

生活者として接することで障害者も保健師も変わる

大島:福井で教鞭をとられたあとは国立公衆衛生院に移られていますね。

久常:福井時代に連載した『保健婦雑誌』を国立公衆衛生院の先生が読まれて、それがきっかけで赴任することになりました。国立公衆衛生院では主に、各県でリーダーになっていく保健師の教育に当たりました。ある時、政令市のトップの保健師から「ここの保健所は優秀な保健師ばかりだが、活動が発展しない。何とかしてほしい」と依頼が入りました。私は教室での教育も好きですが、「この保健所の活動を活発にしてみろ」と依頼されることはもっと好きです。喜んで引き受けました。ここの活動で気になっていることを保健師に出してもらうと、「長年リハビリ教室を開いているが、参加者が減る一方」という声がありました。そこで、「自分が障害者になったらどんな気持ちになるか考えたことはありますか」と聞いたところ、皆さん「ない」と言います。「だったら障害者の方に話を聞くことから始めましょう」と提案しました。

大島:「障害とは何か」という理解が浅かったということですね。

久常:おっしゃるとおりです。ある障害者の方に話を伺うと、「この手が......」と言って泣き出し、障害を持った時どんなに傷つき、どんな辛い思いをしてきたか、堰を切ったように話したそうです。保健師全員で報告会をして見えてきたのは、「障害者は障害の重さの程度にかかわらず、障害者になったという気持ちだけで『自分はダメな人間になった』と思っている」ということでした。

大島:障害者になったことで、ものすごく傷ついている。それが根っこにあったわけですね。

久常:そこでリハビリを変えてみようということになりました。障害者の方に希望を聞いてみると、「街を歩きたい」と言うのです。それで専門職・事務職全員で街を歩いて、踏切や段差、階段など障害物を調べて歩き、ルートを選定し、一緒に街を歩いてみました。そうすると次は「七夕がしたい」「一泊で旅行がしたい」と言い、階段の上り下りのリハビリを自発的に始める方も出てきました。

大島:障害を持った人を"生活者"として接することで、その方のポジティブな面を引き出していく。それが真のリハビリなんでしょうね。

久常:保健師を鼓舞することが私の役割でしたが、結果、障害者の方がどんどん発言し変わっていき、結果、保健師全体が力を付けていきました。

ひさつねせつこ氏とおおしましんいち氏の対談風景の写真。

役人の世界で奔走した8年間

久常:国立公衆衛生院で7、8年働いてきましたが、ある時から職場から逃げ出したくなりました。仕事を辞めないでこの場から逃げられる方法はないかと考えて思いついたのが、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のポストドクターコースへの入学でした。

大島:それは誰も逃げたとは思いませんね(笑)。

久常:「逃げるなら一流の逃げ方を考えなさい」と研修会で看護管理者によく冗談を言いました。カリフォルニア大学では研究室を与えられ、秘書を付けてもらい、最高の環境で勉強ができました。

大島:カリフォルニア大学には何年いらしたのですか。

久常:1990~91年の1年間です。日本へ戻る3か月前、厚生省から「日本に帰ってきたら厚生省に来ないか」という電話が入りました。役人なんてとんでもない、と思いましたが、私は逃げ出してアメリカに来た身。2年間だけなら、とお引き受けしました。厚生省保健指導室長に赴任してまず言われたことは、「1年間は前任者の仕事を踏襲して、特別変わったことはしないでください」。でも2年目には市町村ごとの保健師数の配置基準をつくりました。

大島:厚生省は2年の予定が、次は看護課長になられるわけですね。

久常:保健指導室長のあとはある大学に赴任することを決めていたのですが、今度は厚生省看護課長になってくれと依頼されました。

大島:いわゆる看護職のトップですね。

久常:私は教育の仕事や保健師活動をしてきた人間ですから、日本の医療の実態も、その中での看護師の置かれた状況も知りません。看護の現場を知らない人間が看護課長になるわけですから、それはもうショックの連続でした。最初のショックは看護教育条件の悪さでした。1993年当時、看護教育のほとんどは大学や短期大学ではなく養成所教育(看護専門学校など)によって支えられていました。その養成所では1クラス50人×3学年の学生をたった4人の教員が担当するというのです。

大島:それは少ない人員ですね。どんな配置ですか。

久常:専門教育のはずが、1年生、2年生、3年生担当、そして教務主任で4名。高度経済成長を遂げた日本の看護教育がこれほど貧しい条件下で行われていたのかと、驚きと憤りを覚えました。人件費に関しては大蔵省(当時)が担当なので、すぐに大蔵省へ相談に行きました。

大島:久常さんの話を聞いていると、頭の中で考えて悩むより、まず行動ですね。

久常:結果、養成所の教員を倍の8人にし、学生数も1クラス40名にすることができました。ですが、「看護4年教育への切り替え」や「准看護師養成の中止」は失敗に終わり、さすがに落ち込みました。特に准看護師の件に関しては、思い出すのも嫌なくらいエネルギーを使いました。疲れ果てて、とにかくゆっくり眠りたい。何をしたかというと、脳ドックで発見された脳の動脈瘤を思い出し、ただただ眠りたい一心で開頭手術をしてもらい、2週間休んだこともありました。

大島:眠るために命をかけて手術ですか。久常さんの発想にはいつも驚かされます。

久常:逃げる専門です。アメリカに逃げて、手術で逃げて、准看護師問題に苦しみました。厚生省には結局8年ほどいました。

役人から日本看護協会会長へ転身

大島:その後、慶應義塾大学では看護医療学部の創設に携わりますね。

久常:慶應義塾大学の塾長から「慶應に看護医療学部を新設するから、久常に」と厚生省に相談があったそうです。慶應では4年間教壇に立ちました。ある時、大学の特別授業にある県の看護協会会長をお呼びしました。その際、「日本看護協会会長の任期が切れるから、会長選に出てみては」と勧められ、「出ます」と即答です。背水の陣で出馬しようと、すぐに大学に退職願いを出しました。当選するのかどうか見通しもないのに無謀な挑戦でしたが、2005年に日本看護協会会長に就任しました。

大島:会長になっていかがでしたか。厚生省の役人として役人とやり合うのと、日本看護協会会長として役人とやり合うのとではやはり違うでしょう。

久常:まず手を付けたのは、目の前に迫っていた医療・介護同時改定での「7:1看護」です。患者7人に対して看護師を1人配置するという配置基準です。2006年の診療報酬改定で盛り込まれました。世界と比較して日本は看護の配置が極端に少ないので、改革するなら今しかないと思ったのです。

大島:看護師の業務量も軽減され、患者も質の高い医療が受けられるメリットがありますね。

久常:私は2011年まで日本看護協会会長を務めましたが、看護職の労働時間の問題なども取り上げ、看護協会が動いていることを実感できる時代だったと思っています。協会の魅力が増したのか、それまでの協会の歴史の中で年間の入会会員数が非常に多かった時代です。

大島:ご自身の意志でなろうと思ったのは、保健師と日本看護協会会長ですか。

久常:そうですね。まさに人生の前半と後半、最初と最後です。日本看護協会の会長になろうと思ったのは、協会の力が弱く、その結果、看護の教育や労働環境、看護師の配置など、日本の医療において看護の部分が特にひずんでいる。日本の医療の質の向上には看護の底上げが必要だと思ったからです。私はがむしゃらに仕事をしてきましたが、69歳でパタッと仕事を辞めて、今は人生を徹底して楽しんでいます。遊びのプロです。今回大島先生と対談をさせていただいて、先生は一生仕事に生きる人だと感じました。

大島:私の人生を考えると、国立長寿医療センターに異動してからは自分が設計した人生ではありませんでしたが、それもまたいいと感じています。今日は久常さんの歩んでこられた人生のお話から学ぶことが多くありました。貴重なお話をありがとうございました。

対談者

ひさつねせつこ氏の写真。
久常 節子(ひさつね せつこ)
元日本看護協会会長
1945年高知県生まれ。高知女子大学家政学部衛生看護学科卒業。大阪市立大学家政学部社会福祉修士課程修了。医学博士(日本医科大学)。カリフォルニア大学サンフランシスコ校ポストドクターコース修了。大阪府富田林保健所・門真保健所で保健師活動、高知女子大学・福井県立大学で教育活動を経て、1977年より国立公衆衛生院衛生看護学部に勤務。1991年厚生省健康政策局保健指導室長、1993年厚生省健康政策局看護課長、2001年慶應義塾大学看護医療学部教授、2005年社団法人日本看護協会会長、2011年会長を退任。著書に『看護とはどんな仕事か』(勁草書房)、『にわか役人奮闘記』(学研)などがある。
おおしましんいち氏の写真。
大島 伸一(おおしま しんいち)
公益財団法人長寿科学振興財団理事長
1945年生まれ。1970年名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、1992年同病院副院長、1997年名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、2002年同附属病院病院長、2004年国立長寿医療センター初代総長、2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター理事長・総長、2014年同センター名誉総長。2020年7月より長寿科学振興財団理事長。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health 2023年 第32巻第3号(PDF:5.4MB)(新しいウィンドウが開きます)

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