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天寿がん

公開日:2016年8月29日 11時00分
更新日:2019年2月 1日 22時19分

北川 知行(きたがわ ともゆき)
公益財団法人がん研究会がん研究所名誉所長

安らかに人を死に導くがんの存在

 1968年、若手の助手であった筆者は、98歳の男性の特志解剖を行った(東大では自ら希望して病理解剖が行われる場合を特志解剖と呼んでいた)。この方は生来ずっと健康で医者にかかったことがなく、この年まで頭脳明晰で体もよく動いていた。亡くなる3か月前から食が細くなり、次第に衰弱して、本人も家族も"大往生"と喜ぶ中で安らかに亡くなったのである。

 亡くなる前にこの方は、往診の医師に「自分の体には健康長寿の秘訣が宿っていると思うので、死後、大学に運んで解剖し、それを明らかにして医学の進歩に役立ててほしい」と遺言した。解剖すると、胃の幽門部と噴門部にそれぞれ10cm大の胃がんがあった。噴門部のがんによる食道出口の狭窄が死因であった。この時、筆者は「こんな死に方なら、がんで死ぬのも悪くないな」と強く思った。この方は牧野長太郎さんという名前であったが、"天寿がん"第1号となり大きく世の中に貢献をしたのであって、常に本名を記してその名誉を讃えている。

 北大病理の長島が紹介した大変よい症例がある。松本芳子さんは92歳であったが、あるとき肝臓に径10cm大の肝がんがあることがわかった。症状はなく、本人はいたって元気で花道の先生をしている。北大小児科教授のご子息を含む医師団は十分検討した末、何もしないことが最善の治療であると結論を下した。

 松本さんは、その後、半年ほど元気で過ごされ、安らかに大往生をとげた。生前からがんの診断が下され、攻撃的治療は避けて安らかに亡くなった天寿がんの例である。松本さんは、亡くなる前に自ら剖検を希望された。天寿がん思想確立への貢献を讃えて、ご家族の許しを得て、彼女の名前も公表して讃えている。

高齢者がん患者の急増と医学的問題の浮上

 1970年頃から日本では人口の高齢化が急速に進行した。1990年頃、気が付くと病院には、以前に比して断然多くの高齢者・超高齢者がん患者がみられるようになっていた。しかし医療の側には、それまでに高齢者・超高齢者のがん治療方針に関して十分な検討はされていなかったと思う。1970〜80年代、がんの外科治療は徹底的廓清をモットーとしていた。また、がんの化学療法は「total cell kill」をめざして、最大限の投薬を行っていた。副作用の大きさは覚悟の上で、完治をめざして、のるかそるかの治療を行うという面があった。

 しかし重要臓器に(隠れた)欠陥のある高齢がん患者に、手術や化学療法という攻撃的治療を適用すると、一挙にQOLが低下し、そのまま悲惨な結末を迎えることが時にあった。攻撃的治療を避けて対症療法で経過を追ったら、患者はQOLを保ちつつより長く生きたのではないか。この問に対するきちんとした答えは用意されていなかった。

 他方、1分1秒でも患者の延命を図ることが医師の使命であるというナイーブな思想が依然としてはびこっていて、患者は否応なしに無意味に近い終末治療を受け、スパゲッティ症候群を呈して病院のベッドに横たわっていることも多かった。そしてまた、がんは死病であり、末期には大変な苦しみが伴うとする旧来の理解がまだ一般的であり、多くの人々はいたずらにがんに恐怖心を持ち、そのことは予防や診療の妨げにもなっていた。

天寿がん研究の必要性

 そこで筆者は、牧野さんや松本さんのようながんを"天寿がん"と名付け、天寿がんの存在を明らかにしていくことは意味があるだろうと考えた。高齢者・超高齢者の個々のがんの自然史が明らかになり、天寿がんが認識されてくれば、不必要で有害な攻撃的治療を行うことを避けることができるであろうし、また天寿がんの存在は、人々のがんに対するいたずらな恐怖心を取り除き、がんと合理的につき合う道を広くするであろうと期待された。

 幸い、1994年に厚生省に「高齢者のがん、特に天寿がんに関する研究班」ができた。"天寿がん"は「安らかに人を死に導く超高齢者のがん」と定義された。超高齢者を定義するに当たり、人は60歳を過ぎると暦年齢と生理的年齢が大きく乖離してくる場合があるので、本質的には無理があるが、当時の平均寿命が男性79歳、女性83歳であったので、とりあえず男性85歳以上、女性90歳以上を超高齢者とした。

天寿がん探し

 さて研究班は、手始めに天寿がんの症例を手分けして収集することにしたが、これが意外に難事業であった。多くの医師に依頼したが、臨床経過や検査所見がきちんと記録されており、最後は剖検で確認されている超高齢者がんの症例はなかなかみつからなかったのである。

 まずわかったことは、癌研やがんセンターのようながん専門病院や大学病院では、天寿がんはまず見出せないということである。これらの施設では、患者も医師も積極的な治療を望むし、それができない患者は他の施設にまわされ、その後の経過については、医師はほとんど知らないからである。

天寿がんの実態と頻度

 札幌東病院の石谷らは、在宅治療で死を迎えたがん患者例を全国から208例集めて解析したところ、18例が超高齢者で、その中の5例(28%)は天寿がんであったと報告した。がんの原発巣は肝、胃、肺、膀胱などいろいろであった(表)。在宅死の数は厚生省の統計にある(平成20年では25,000人)。その3分の1ががん死とみなすと、在宅死群での天寿がんが年に約2,000例あることになる。在宅がん死群には天寿がんになりやすい患者が多いことは考えられるが、それにしても少なくはない数である。

 東京都老人医療センター(養育院)の田久保らは、施設に蓄積された5,667の剖検例のうちから超高齢者の胃がん23例を取り上げて、その終末状況をカルテの記載から調べ、その中の9例(39%)は天寿がんとみなされると報告した。

 虎の門病院の原は、3,876の剖検例のカルテを精査し、入院して初めてがんと判明したが、攻撃的治療は受けずに亡くなった38例の超高齢患者の中17例(45%)は天寿がんであったとみなせると結論付けた。病院に運ばれるまでなんとか健康で暮らし、入院してじきに苦しみもせず亡くなるのは天寿がんと考えられるからである。初めのうち、天寿がんは緩徐に進行すると予測していたが、急速に進行するものもあるという理解に至ったのである。むしろ年余にわたり緩徐に進行するがんは、さまざまな症状が出て天寿がんになりにくいこともわかった。

 カルテの記載から"安らかな死"を推定することには多少の無理があるが、これらの剖検例から出発した研究からも、超高齢者のがん死の中には、かなりの頻度で天寿がんが存在するといえそうである。それが数%なのか、ことによると一桁上の頻度なのか、この研究班ではつめることができなかった。

表:在宅がん死亡症例中の天寿がん頻度を示す表。表 在宅がん死亡症例中の天寿がん頻度

天寿がんになりやすいがんの外科的考察

 国立がんセンターの佐野は、同じ臓器でも、臓器内のがんの位置で天寿がんになるかどうか異なることを外科医の立場から明確に指摘した。

 例えば、胃の噴門がんや食道がんは、牧野さんのように、天寿がんになりやすい。手術はむずかしいし、効果も限定的であるので積極的には手を出さない。同じ胃がんでも幽門がんは、放置すると狭窄症状で苦しむことになり、他方、手術は簡単で効果があるから外科的治療を行う。すなわち天寿がんにはなりにくい。

 腸管のがんも、放置するとイレウスを起こすので、転移があっても原発巣を摘出する。乳がんも、放置すると皮膚に潰瘍を形成し悲惨な状態になるので、原発巣を摘出する。すなわち天寿がんにはなりにくい。肝がんは、肝門部から離れた部位のものは、松本さんのように、天寿がんになるが、肝門部付近のものは早期に症状が出るので積極的な治療を行い、天寿がんにはなりにくい。

天寿がん診断の病理学的考察

 天寿がんの診断は、死後につけることは簡単だが、生前に下すことは容易ではない。がんは浸潤・転移するし、時間の経過とともに悪性度が進行することも多い。ある時点で痛み苦しみがなくても、その状態がずっと続くとは限らない。

 まことにその通りであるが、しかし天寿がんの研究がさらに進展し、症例が蓄積されてくれば、超高齢者の、ある臓器のある部位に、がんが高度に進行した状態で発見され、しかも症状がない場合、かなりの(80%以上?)の正診率で天寿がんの診断を下すことができるようになるのではないか。遺伝子検査で、がんの易転移性や易進行性が否定されれば、診断はさらに確実となろう。総合性のある病理医と臨床医との共同作業で、将来これらの研究が進むことが期待される。

 他方、個々のがんの治療感受性が次第に明らかにされてきている。感受性があるならば、化学療法でも放射線療法でも、積極的な治療が考慮されるべきであろう。

準天寿がん

 実は、天寿がんの頻度は大きくなくてもよいのであって、天寿がんが存在するということが人々の光なのである。天寿がんがあれば"準天寿がん"がある。手術後の再発がんの経過が天寿がんに近い場合があるし、緩和療法の発達により、大部分のがん患者は末期の疼痛から解放されるようになったので、準天寿がんはかなり多いであろう。

 がん研の林は、「天寿がんに導くことを目的にして治療をする」という概念が、高齢者のがん治療の上で大変有効であると論じた。

天寿がんと自然死

 自然死とは大辞林によれば「外傷や病気によらず、生活機能の自然衰退によって死ぬこと」である。"病気"とは何か、"生活機能の自然衰退"とは何かは曖昧であるが、中心にあるのはいわゆる老衰死のイメージであろう。世の中にはポックリ病、あるいはピンピンコロリの信奉者は少なくないが、多くの人が望んでいるのは、健康長寿を楽しんだ後に、苦しまず、他人に迷惑をかけず、見苦しい姿を経ずに死ぬことであろう。もっとも望ましい自然死である。天寿がん死は、病死ではあるが、望ましい自然死に近いと考えられる(図)。

図:天寿がんと自然死を示す図。身体機能が突然無くなる外因子による不慮の死。身体機能が急に衰え死に至る病死(含がん死)。身体機能が加齢・老化とともに緩やかに衰えていき、死に至る自然死(老衰、天寿がん)を表す図 天寿がんと自然死

天寿がん思想

 がんと合理的につきあう道を広げようとする天寿がんの考え方を普及するために、6項目からなる「天寿がん思想」がつくられた。

天寿がん思想

  1. 人は天寿を授かっている(必ず死ぬ)
  2. 安らかに天寿を全うすることは祝福されるべきことである(死因は不問)
  3. 超高齢者のがんは、長生きの税金のようなものである(年齢とともにがん発生のリスクはうなぎ登りに増える)
  4. 超高齢者のがん死は、人の一生の自然な終焉の1パターンと考えられる(3分の1はがんで死んでいる)
  5. 天寿がんなら、がん死も悪くない(認知症や不随になり、人に迷惑をかけながら、いつ果てるとも知れずベッドで生きているよりはずっとよい)
  6. 天寿がんとわかれば、攻撃的治療も無意味な延命治療も行わない (自然死に近いのだから、自然に徹する)

天寿がん思想への反響

 この"天寿がん思想"は、医師や医学生や一般の人々にすこぶる肯定的に受け止められてきている。「医師から天寿がんの話を聞いて落ち着いた」という患者の声や「天寿がん思想で診療している」という老人病院の医師の声などが時々届けられるし、ネット上にも登場する。最初のうちは、「天寿がん思想は、最善を尽くそうとする医療に干渉する」という批判もあったが、最近はなくなった。尊厳死の思想が次第に受け入れられ、また従来の終末治療のあり方に反省が下されるようになってきたからでもあろう。

 天寿がん思想は米国の専門誌Cancerに発表したが、英語に"天寿"という言葉がないのには往生した。理解を助けるために"Tenju-gann or Natural-end cancer"としてみたが、ある医師に、苦しんで死んでも"natural end"ではないかと指摘され、なるほどと思った。TsunamiやSushiと同様に、世界に向けて"Tenju-gann"で押し通すのがよいのかもしれない。

天寿がん思想を取り巻く社会状況の変化

 天寿がん思想を世に出した頃から20年の間に、がんや終末医療に関する考え方に変化がみられ、また治療の進歩がある。

  • がんは治し得る病気であるとする理解が行き渡ってきたこと:2011年の治療後の10年生存率(国立がんセンター)をとってみても、全がんで58%、乳がんや前立腺がんでは80%以上、胃や腸のがんでも70%前後である。小児がんで頻度が高く、かつては致命的であった白血病も、現在は80%以上治癒している。がんが死に直結する恐ろしい病であるとする考えや恐怖はしだいに薄くなってきている。
  • 尊厳死の考えが力を得、いたずらに終末期の延命治療を続けることを拒否する思想が広がってきたこと。
  • がんを徹底的にやっつけるのではなく、患者のQOLを重視しつつ、がんとの共存をはかる治療方針(休眠療法─高橋)が提唱され、その有効性が認められつつあること。
  • 低攻撃的な治療法が伸びてきたこと。放射線療法は、外科的療法に比して攻撃性が少なく、それにもかかわらず外科的療法と同じ程度に有効であると欧米ではいわれてきているが、日本でも近年受け入れられつつある。また化学療法の中に、低攻撃的であるが有効性の高い分子標的治療薬や免疫チェックポイント阻害剤が登場してきた。攻撃的治療は避ける"天寿がん候補"患者の治療選択肢が増加しているといえる。
  • 個別化医療の進展。もともと天寿がん研究の出発点でのモチーフの1つが高齢者がんの個別化治療であったので、これは好ましい進歩である。

天寿がん思想の将来

 上述のように、天寿がん思想の必要性を訴えた初期の状況はかなり変わってきた。それでは天寿がん思想は不要になるかというと、そうはいえない局面がある。

 がんの生存率が大きく伸びているのは事実であるが、まだ予後のよくないがんが多々ある。5年生存率でみると、膵臓がん7%、肺がん25%、胆嚢・胆管がん28%、肝がん28%、脳腫瘍32%、白血病36%などなど、恐怖を誘う現状である。生存率のよいがんでも、検診による早期がんの発見が大きく貢献しているのであって、進行がんの生存率がそれほど伸びているわけではない。

 年齢とともにがんのリスクは急増するので、1つ2つのがんを乗り越えても、結局はがんで亡くなる人もいる。高齢者・超高齢者に早期発見のための十分な検診を実施することには、さまざまなバリアがある。結局、将来も高齢者・超高齢者のがん死はあまり減らないのでないかと予想される。それゆえ、天寿がん思想はいつまでもその有用性を失わないのではないかと思われる。

 他方、医療費の高騰が深刻な社会問題となってきている。現在の医療保険システムも社会保障システムもこのままいくと近い将来に破綻する恐れがあるといわれている。後世に大きなリスク・負担を残しながら現在が流れている。これはよくないと誰もが思っている。終末医療のあり方も含めて、腰を据えて考えるべき時である。

 終末医療に関しては、天寿がん思想も貢献するであろう。

参考文献

  1. Kitagawa T, Hara M,Sano T and Sugimura T. The concept of Tenju-gann, or "Natural-end cancer.Cancer 83:1061-1065, 1998
  2. Kitagawa T. and Sugimura T. The concept of Tenju-gann,or Natural-end cancer".(Correspondence)Cancer85:1197-1199,1999
  3. 北川 知行. 天寿がん思想とがん克服.現代医療31:1887-1899,19994)自然死と天寿がん.緩和医療2:71-76,2000

筆者

北川 知行(きたがわ ともゆき)
公益財団法人がん研究会がん研究所名誉所長
【略歴】1963 年:東京大学医学部卒業、1968 年:東京大学医学部病理学教室助手、1970 年: 財団法人癌研究会・癌研究所研究員、1978 年:同病理部長、1993 年:同研究所長、 2006 年より現職、兼交流センター長(2011 年:公益財団法人に移行、「がん研究会」 へ名称変更)
【専門分野】病理学、腫瘍学。医学博士

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health No.78

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