いつも元気、いまも現役(一般社団法人「日本て・あーて,TE・ARTE,推進協会」代表理事 川嶋みどりさん)
公開月:2026年1月

やわらかい手が触れると
70年余りにわたる看護師の経験から、看護の基本は「手当て」という信念をもつ。
ナイチンゲールの肖像写真が飾られたご自宅の書斎で、なぜ「手当て」なのか、お話をうかがった。資料があふれ、本棚には医療以外のアートや文学の本も見える。パソコン、大型コピー機を備え、編集者らとのやり取りにはPDFやWordを使いこなし、メールの返信はすばやい。朝5時半に起き、講演や執筆を通して「手当て」の有効性を説く。

小柄な体格。小さな手は、ふっくらとしている。この手で94歳のいままで、どれだけ多くの患者さんの心と体に触れ、生きる力を引き出してきたのだろう。そのやわらかい手で撫でてもらうと、手がふんわりと温かい層に包まれ、穏やかな気持ちになっていく。川嶋さんが考える看護とは、患者さんをよく看て体に触れ、何がこの人に必要かを五感で感じとることだ。
「脈をとらせてください」と語りかけ、目をみつめながら、手首から指先まで「鳥の羽のように」優しく優しく触れていく。それだけで、脈の強弱、発熱、水分不足など、患者さんの状態が分かると話す。
看護婦志望ではなかったけれど
少女のころは看護婦※になりたいとは思っていなかった。医師のお手伝いさんのような印象だったためだ。親戚に医師が多かったため、小学生のころは医師になりたかったという。
銀行員の父が赴任していた京城(現・韓国ソウル)で生まれた。釜山高等女学校時代は戦時中の勤労動員で軍服のボタン付けをさせられ、勉強どころではなかった。
1946年5月、家族8人全員で父の故郷・島根県にたどりつく。ようやく手に入れた4反歩(約4,000m2)で、"にわか農家"の両親が肥え桶をかつぐ。現金収入はなく、学費がかかる医師への夢は言い出せない。ただ、父は女子医専の規則書を取り寄せていたようだ。高等女学校の保健の教師が聖路加女子専門学校出身で、看護学校の給費生になることを勧めてくれた。
※ 2002年3月に法改正で、看護婦、看護士から男女を問わず看護師という呼び方に変わりました。本稿では当時使われていた呼称を使っています。
学ぶ喜びに満ちた学生生活
15人の合格者のひとりとなって日本赤十字女子専門学校に入学。東京での生活が始まる。学校と寮は渋谷区の日本赤十字社中央病院敷地内にあった。当時は同じ場所で聖路加女子専門学校の学生と一緒に、同じカリキュラムで学ぶ。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が両校を合体し、看護のモデル校としたためだ。学生とはいっても、午後11時から午前7時までひとりで病棟の夜勤をしなければならない実習もあった。それも1週間通しだ。むろん昼には授業があり、試験日と重なっても夜勤は外されない。
それでも学ぶ喜びが上回っていた。戦争で勉学の機会を奪われていたため、ともかく勉強したかった。特に聖路加女専の高橋シュン先生との出会いは、その後の道しるべとなった。
小児科をライフワークにしたい
高橋先生は自ら腕まくりをして臨床指導に当たり、厳しいけれど涙もろい一面もあった。
実習中、警察官が渋谷の飲食店のごみ捨て場で見つかった赤ちゃんを連れてきた。残飯まみれで悪臭がひどい。立ちすくむ川嶋さんに先生はすぐ、ホウ酸綿、オリーブ油と脱脂綿、お湯で絞ったタオルを持って来てと指示。か細い声でなく赤ちゃんを拭き、小児水(赤ちゃん用に作った水)を飲ませた。衰弱し、かさぶたに覆われていた赤ちゃんは生きる力を取り戻した。抱き上げ、「きれいになったね」と頬ずりする先生の姿に、看護の力を思い知らされた。

一時母校の教員となったが、通算5年小児科病棟に勤務。「子どもたちから看護のあり方を教えられました」。患者さんのために何をしたらよいか考える看護は、言葉で苦痛を訴えられない小さな子どもだけでなく、病気の種類を問わず老若男女に通用する原点だと確信した。
30歳前後には大きなできごとが次々とあった。当時の看護婦は、寮で暮らし結婚退職するのが当然だった。寮を出てみて薄給に愕然とし、病院に待遇改善を要求した。1957年、通産省地質調査所(当時)の研究者と結婚、長男、次男を出産した。母になる看護婦が増え始め、院内に保育所設置を求めた。"優等生"の川嶋さんは、こうした行動により上司から睨まれるようになる。

「乳児がミルクを飲むゴクゴクという動きが哺乳瓶から手に伝わる心地よさから病棟看護婦が感じる赤ちゃんの可愛さと、母親になってわが子に対して感じる可愛さとは質が違う。母親の気持ちが本当には分かっていなかった」。そのため産休明けには「小児科が自分のライフワーク」と訴えて、小児病棟への復帰を志望したが、耳鼻科外来にまわされた。規模が小さい科で、外来は"島流し"と目されており、左遷かと疑った。
お腹がすいているのになぜ食べない
「でも、耳鼻科は人間が人間らしくある臓器を扱う科だと"開眼"したんです」。生命維持に欠かせない呼吸、嚥下、直立歩行するための平衡器官がある内耳、コミュニケーションに必要な耳や滑舌などは耳鼻咽喉科の領域だ。医師が額帯鏡をつけて局所をみるのに対し、「看護婦はジェネラリスト」という意志はさらに強まる。
夏休みになると、扁桃腺除去手術をする子どもたちが多く入院する。術後はお腹がすいているはずなのに、食欲も元気もない。のどが痛むのだろうか。ひとりの子どもに麦茶なら飲めるか聞くと一気に飲み、「痛くない」と答えた。痛くないならなぜ、食べないのか。術後の食事は重湯や葛湯だった。そこで小学2年生から5年生に「重湯や葛湯を知っているか」とアンケートをすると、「知らない」という答えばかり。早速カンパを募り、プリン、アイスクリームなど子どもが親しんでいるものから自由に選ばせると、喜んで食べた。親から離され、病院という非日常空間で、未知のものを怖れて口にしなかったのだと実証した。

やはり手には力がある
夫は結婚当初から妻の激務を理解し、家事分担を申し出てくれた。その夫が金婚式を前に舌がんにかかり、緩和ケア病棟に入院。「手をつないだことなんてなかったのに、ギューッと手を握っちゃって離さない」。苦しそうなので看護師を呼ぶたび、血中酸素濃度の数値を見て「大丈夫」と去っていく繰り返しだった。ところが、友人で看護師の村松静子さんは見舞いに来ると、さっと首のあたりに手を当て、「肩凝ってるね。痛かったでしょ。辛かったでしょ」と肩や手をさすり、握手してくれた。気管切開して話せない夫は「ありがとう。気持ちよかった」と書いて涙を流した。
やっぱり手だ、手当てだと強く思った。
2011年、日本赤十字看護大学を退職。ほっとする間もなく、東日本大震災被災者の姿にいてもたってもいられなくなり、退職した看護師を率いて支援にむかう。ここでも寄り添い、手を触れる看護の力を再確認した。そして手によるケアの有効性を研究、普及するため13年、を設立。協会は25年、「未来のいしずえ賞」を受賞した。さらに看護現場での実体験を看護師自身が「書き手として伝え、読み手となり考える」ため、雑誌『』(看護の科学新社)を22年に創刊している。

90歳から合気道を習い始めた。「氣」によって自分より重い人を動かせるなら看護にも取り入れられるかと入門し、月2回通う。
「て・あーて」は「手」と「アート」の造語。研修で来日したアフリカの看護師に、機器が乏しくても「手当て」があると話すと、ひとりが「て・あーて、て・あーて」と歌い出した。mottainai(もったいない)が世界語となったように、「TE・ARTE」も広まってほしい。そう願っている。
撮影:丹羽 諭
プロフィール

- 川嶋 みどり(かわしま みどり)
- PROFILE
看護師。1931年5月18日、京城(現・韓国ソウル)生まれ。6人きょうだいの長女。1951年日本赤十字女子専門学校卒業、日本赤十字社中央病院(現・日本赤十字社医療センター)に勤務。82年から健和会臨床看護学研究所長。2003年から11年日本赤十字看護大学教授、現在同大名誉教授。「東京看護学セミナー」世話人代表。11年東日本大震災後に看護チームを率いて被災者を支援。22年雑誌『オン・ナーシング』(看護の科学新社)を創刊。1995年第4回若月賞、2007年第41回フローレンス・ナイチンゲール記章、15年第1回山上の光賞受賞。著書は『看護の力』(岩波書店)、『長生きは小さな習慣のつみ重ね』(幻冬舎)、『私的高齢者ケア論』(医学書院)など多数。
※役職・肩書きは取材当時(令和8年1月)のもの
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