希望は歩み続ける人に訪れる(垣添 忠生)
公開月:2026年10月

シリーズ第19回 長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして
人生100年時代を迎え、一人ひとりが生きがいを持って暮らし、長生きを喜べる社会の実現に向けて、どのようなことが重要であるかを考える、「長生きを喜べる社会、生きがいある人生をめざして」と題した、各界のキーパーソンと大島伸一・公益財団法人長寿科学振興財団理事長の対談の第19回は、公益財団法人日本対がん協会会長の垣添忠生氏をお招きしました。
膀胱がんの基礎研究にのめり込んで
大島:今回の対談には、会長で、国立がんセンター(現・国立がん研究センター)名誉総長の垣添忠生先生にお越しいただきました。垣添先生は私と同じ泌尿器科医です。垣添先生が国立がんセンター総長を務めておられた頃、私も国立長寿医療センター(現・国立長寿医療研究センター)の総長を務めており、同じナショナルセンターの総長として会議などでご一緒する機会が増えました。それまでは、「垣添先生のような医師になりたい」と思うほど、私にとっては遠い目標のような存在でした。
垣添:同じ泌尿器科医として、大島先生が若い頃から名古屋で活躍されていることを、ずっと見ていましたよ。先生が国立長寿医療センターの総長に就任され、「これまでの病院完結型の医療は終わりだ。これからは在宅医療が大事だ」と言われたときには、「ナショナルセンターで在宅医療?」と冷ややかに見る向きも一部にありましたが、私は、「在宅医療こそ、これからの日本にとって重要な研究領域の一つだ」と考え、先生を支援したことを覚えています。
大島:一部から厳しい言葉をいただいていましたので、垣添先生から「何を遠慮することがある。堂々とやればいい」と励ましていただいて、嬉しかったことを今でもよく覚えています。
垣添先生は30年以上、国立がんセンターに勤務されました。まずは先生のこれまでの歩みをご紹介いただけますでしょうか。
垣添:1967年に東京大学医学部を卒業しましたが、東大闘争のストライキの影響で入局せずに、都立豊島病院に勤務し、泌尿器科医の基礎を学びました。ただ、当時、表在性膀胱がんは治療しても再発を繰り返していたので、再発の仕組みを解明する必要があると考えました。手術中に腹膜が開いてしまった際も、がんの転移の可能性を考えて他の臓器も観察すべきなのに、すぐに腹膜を閉じることにも疑問を抱きました。これからの泌尿器科医には外科の技術と知識が必要だと考え、藤間病院の外科へ移りました。藤間病院は個人病院でありながら手術件数が多く、その大半ががんの手術でした。そこで1年間、腹部外科の手技を徹底的に学びました。
1972年に東大泌尿器科へ戻ってからは、昼は臨床、夜は国立がんセンター研究所で基礎研究に取り組みました。当時、生化学部長で、後に国立がんセンター総長となられた杉村隆先生に師事しました。そして1975年、国立がんセンター病院泌尿器科へ移りました。がんセンターは忙しいうえに給料も決して高くなく、アルバイトも認められていなかったので希望者は少ないのですが、臨床も研究もやりたかった私にとっては理想の職場でした。
泌尿器科医と研究者という二足のわらじを履き、朝は動物舎で実験動物の状態を確認し、その後病棟を回診して手術や外来を担当、夕方に再び回診を終えると研究所で実験を行い、帰宅前に動物舎へ立ち寄る。そんな生活を15年間続けました。最大の関心事は膀胱がん。なぜ表在性膀胱がんはこれほど再発するのか。世の中にこんなに面白い世界があるのかと思うくらい研究にのめり込みました。
その後は手術部長、病棟部長などを経て、50歳で国立がんセンター病院長(後の中央病院長)に就任しました。当時は外科や内科から病院長になるのが一般的でしたので、当時はマイナーな科といわれていた泌尿器科出身、それも50歳での病院長就任は異例でした。2002年に60歳で総長に就任し、2007年に65歳で定年退職しました。その後はボランティアとして日本対がん協会の会長を務め、間もなく20年になります。
全国縦断「がんサバイバー支援ウォーク」
大島:国立がんセンターを退職されてからの垣添先生の活動は、メディアでも多く取り上げられ、私たちの耳に届いています。日本対がん協会ではどのような活動をされているのですか。
垣添:日本対がん協会は、「科学的根拠に基づくがんの予防と検診」、「がん患者、家族の支援」、「正しい知識の普及、啓発」を三本柱として、「がんで苦しむ人、悲しむ人をなくす」ことを目標としています。
大島:先生は「がんサバイバー支援ウォーク」で日本中を歩かれましたね。これは、どのようなきっかけで始められたのでしょうか。
垣添:がんに対する理解が不十分なために、がんサバイバー(がんを経験した人)が孤立したり、差別されたりすることは、耐えがたいことでした。がんは身近な病気です。「がん=死」というイメージを変えていきたい。その思いがありました。私自身も大腸がんと腎がんのサバイバーであり、妻をがんで亡くした遺族でもあります。全国のがんサバイバーや医療関係者を訪ね歩き、その声を直接聴きたいと考えました。そこで、日本でがん医療をリードする「全国がんセンター協議会」に加盟する32の病院を一筆書きのようにできるだけ歩いて訪問し、「がんサバイバーを支援しよう」の幟(のぼり)を掲げながら、支援を呼びかけることにしたのです。
2018年2月5日に福岡の九州がんセンターをスタートし、佐賀、大分へ。フェリーで四国に渡り松山へ、しまなみ海道を通って本州へ入り、広島、山口へ。いったん東京に戻り、新幹線で次のスタート地点まで移動して、再び歩き始める。これを繰り返し、半年後の7月23日、ゴールとなる北海道がんセンター(札幌)に到着しました。半年間で2,500kmを歩きました。
大島:当時、垣添先生は70代後半でした。2,500kmに及ぶ旅は、想像するだけでも過酷なものだったと思います。以前、先生が「何かやらなければならないことに遭遇したら、躊躇なく一番厳しいものを選ぶ」とおっしゃっていたことを思い出しました。
垣添:妻からもよく、「あなたには引かない強さがある」と言われましたね。体力にも自信がありました。2015年には真夏に四国八十八か所を巡礼しましたし、その頃から体を鍛えていました。加齢とともに身体機能はどうしても低下しますが、筋肉は鍛えれば鍛えるほど伸ばすことができます。私は毎朝1時間早く起きて、ストレッチと筋力トレーニングを行っています。入念にストレッチをした後、腕立て伏せ、肘立ち、腹筋、スクワット。さらに空手の突きと蹴り、最後に居合の型を行います。現在はパーソナルトレーナーの指導を受けて週1回トレーニングを行い、自己鍛錬として居合の稽古も続けています。日常生活でも、一つ手前の駅で降りて歩くなど工夫しながら、1日1万歩を目標にしています。
大島:私は岐阜の山奥に住んでいて、山道を午前に1時間、午後に1時間歩くようにしていますが、筋トレはどうも苦手です。垣添先生のメニューを伺って、さすがだなと思いました。

東日本大震災の被災地1,000kmを歩いて
大島:その後2023年には、垣添先生は東日本大震災の被災地の4県を歩かれました。この旅はドキュメンタリー映画「」として全国で上映されていますね。
垣添:81歳になった頃、映画監督の野澤和之さんから、「ドキュメンタリー映画を撮りたいので、一緒に歩いていただけませんか」と連絡をいただきました。東日本大震災から12年という節目の年でもあり、「みちのく潮風トレイル」を歩こうと思いました。「みちのく潮風トレイル」は、環境省が東日本大震災の被災地をつなぎ、震災を忘れないために整備した道です。青森県八戸市から福島県相馬市まで、4県29市町村の太平洋沿岸1,000kmを結んでいます。
2023年3月27日に八戸をスタートしました。「がんサバイバーを支援しよう」と「3.11を忘れない」という2つのロゴを入れた幟を掲げて歩くと、実に多くの人との出会いがありました。最初は、がんサバイバーと津波の被災者は別々の存在だと思っていましたが、道行く人の話を聞いていくうちに、ジャンパーのジッパーが閉まっていくように両者が近づき、最後には重なるのです。人生の途上で、思いがけず足をすくわれたという意味では、津波の被災者も、がんを経験した人も、本質的には同じではないかと思うようになりました。
そして、その人たちが過酷な状況から立ち直るきっかけは何だろうと考え、辿り着いた答えが「希望」でした。「ほんのわずかでも希望があれば、人は生きていける」。そう思ったのです。
大島:その「希望」は、どうすれば得られるのでしょうか。
垣添:それは、「行動すること」です。岩手県大槌町に東京大学大気海洋研究所があり、「みちのく潮風トレイル」の脇にあります。そこに立ち寄って青山潤所長(当時)に話を聞いた際、プレゼンのスライドに、「Hope is a wish for something to come true by action」という印象的な言葉がありました。調べてみると、それは東京大学社会科学研究所の玄田有史先生の言葉でした。さっそく先生の著書『希望のつくり方』(岩波新書)を読み、インタビューをお願いしました。
玄田先生は当初、「Hope is a wish for something to come true」と考えていたそうです。しかし、何かが足りないと議論を重ねる中で、「行動」が欠けていることに気づき、「by action」を付け加えたそうです。「トンネルの先に明るい光が見えることが希望だと思っていた。しかし実際には、暗闇の中で壁にぶつかり、つまずき、迷いながらも、それでも出口に向かって歩き続けることが希望につながるのだ」と語られました。まさにそうだと思いました。私は、どんなに困難な状況にあっても、前を向いて歩み続ける人の肩に、天使の羽毛がそっと舞い降りるように訪れるもの、それが希望なのではないかと思うようになりました。
大島:昨日より今日、今日より明日へと、一歩ずつ前に向かって行動する人にこそ、希望の光が見えてくる。先生は日本中を歩き、多くの人々と交流する中で、そう実感されたのですね。

在宅医療こそが日本の医療を支える基盤
垣添:最初に触れた「在宅医療」の話ですが、2000年頃、「これからは在宅医療が重要になる」と考えるようになりました。そこで在宅医療を学ぶために、地域で在宅医療に尽力されている先生方に短期研修をお願いしました。大学の後輩の川越厚先生(現・在宅ホスピス研究所パリアン代表)、立川在宅ケアクリニックの井尾和雄先生、そして長崎で在宅医療のネットワークを展開している白髭豊先生です。そんな折、大島先生から「国立長寿医療センターで在宅医療に取り組みたい」という話があり、支援させていただいたのです。
大島:あの時は本当にありがたかったです。私は2004年に国立長寿医療センターの総長として赴任しましたが、センターとして何に重点を置くべきか模索していました。そんな中、厚生労働省におられた辻哲夫さんと出会い、在宅医療という重要なテーマに巡り合い、在宅医療に取り組むことを決めました。現在、平均寿命が80歳を超え、特に女性は90歳に近づいていますが、さらに寿命を延ばすことだけが第一のミッションではありません。がん治療も含め、高齢者医療で最も求められるのは、生活の質(QOL)をどう担保するかです。もちろん治療は大切ですが、年齢が高くなるにつれて、その比重は次第に小さくなり、QOLをどう維持するかということの重要性がより高まっていくと考えています。
垣添:まったく同感です。在宅医療の重要性を実感した理由の一つに、妻を自宅で看取った経験があります。私が国立がんセンターの総長を退任した2007年、肺がんで入院していた妻が「自宅で死にたい」と強く望み、12月28日に自宅へ連れて帰りました。妻が「アラ鍋が食べたい」と言うので宅配便で取り寄せて準備しました。抗がん剤の副作用で口内炎と食道炎がひどく、おそらく食べられないだろうと思っていたのですが、在宅だからこその奇跡でしょうか、大きな茶碗で2杯もおかわりをしたのです。そして家中を見渡しながら、「家というのはこうでなくちゃ」と何度も話していました。その後、容態は急速に悪化し、大みそかの朝には昏睡状態になり、午後からは呼吸も苦しくなりました。外がすっかり暗くなった頃、彼女は突然ぱっと起き上がり、私を見つめ、自分の右手で私の左手をぎゅっと握りました。そして午後6時15分、息を引き取りました。私は、彼女は最後に「ありがとう」と伝えて旅立ったのだと思いました。その後の3か月間は、妻を失った悲しみで死ぬほど苦しみました。しかし、最期の瞬間に心を通わせることができた。そのことが、私が立ち直る大きな支えになりました。
大島:奥様の希望どおりにご自宅で看取られた経験が、先生の心の支えとなり、在宅医療の大切さを実感されたのですね。在宅医療は、地域包括ケアの中核を担う医療として位置付けられ、制度や法律の整備は進みました。しかし、実践は地域ごとに行われているため、地域間でばらつきがあります。今後は在宅医療をどう展開し、どう普及させていくか。そのための計画づくりと実践が始まった段階であり、いわば「在宅医療の社会化」の時代に入ったといえます。次の課題は医学教育です。在宅医療を医学教育の中にどのように取り入れていくのか。そのためには、在宅医療を教えることのできる人材の育成と、在宅医療の体系化が欠かせません。
垣添:が毎年11月23日に開催している「在宅医療推進フォーラム」に参加すると、全国にこれほど熱意を持って取り組んでいる人たちがいるのかと実感します。あのような場に医学生も参加し、講義だけでは学べないことを直接感じてもらえたら素晴らしいですね。大島先生は81歳とは思えないほどお元気ですから、これからも第一線で頑張っていただきたい。私も対がん協会の会長は当分続けるつもりです。体が動く限り、世の中のため、人のために働き続けたいと思っています。
大島:垣添先生の前では、「もう疲れたからやめます」なんて、とても言えませんね。今日は本当にありがとうございました。先生からたくさんの気付きと元気をいただきました。
対談者

- 垣添 忠生(かきぞえ ただお)
- 公益財団法人日本対がん協会会長
1941年大阪府生まれ。日本対がん協会会長、国立がんセンター名誉総長。1967年東京大学医学部医学科卒業。都立豊島病院、藤間病院外科に勤務後、1972年東京大学医学部泌尿器科助手。1975年国立がんセンター病院泌尿器科に勤務し、同病院手術部長、第一病棟部長、副院長、病院長、中央病院長などを歴任し、2002年総長、2007年名誉総長、日本対がん協会会長。2013年瑞宝重光章受章、2025年文化功労者。著書に『妻を看取る日』(新潮社)、『がんと人生』(中央公論新社)、『「Dr.カキゾエ黄門」漫遊記』『Dr.カキゾエ 歩く処方箋』(ともに朝日新聞出版)など多数。

- 大島 伸一(おおしま しんいち)
- 公益財団法人長寿科学振興財団理事長
1945年生まれ。1970年名古屋大学医学部卒業、社会保険中京病院泌尿器科、1992年同病院副院長、1997年名古屋大学医学部泌尿器科学講座教授、2002年同附属病院長、2004年国立長寿医療センター初代総長、2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター理事長・総長、2014年同センター名誉総長。2020年より長寿科学振興財団理事長。2023年瑞宝重光章受章。
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