いつも元気、いまも現役(「農口尚彦研究所」杜氏 農口尚彦さん)
公開月:2026年10月

84歳から再び酒造りに挑む
16歳で酒造りの道に入り、28歳の若さで酒造りの最高責任者である杜氏(とうじ)に起用された。65歳で酒造会社を定年退職して杜氏を退いた後も、さらに2つの蔵から請われて杜氏を務めた。計3回の引退を経て、84歳で再び杜氏となり、93歳のいまも旨い酒を追い求める。
石川県小松市の市街地から車で20分あまり。山あいの観音下(かながそ)の地に鉄骨造2階建て、約1,700平方メートルの建物が建つ。だ。ガラスを多用した、酒蔵というイメージとはかなり違う外観だが、軒先の杉玉が目を引く。近くにそびえる観音山には、黄みを帯びた岩「日華石」が屹立する石切り場跡がある。その山頂付近には観音様がまつられているそうで、同研究所のウェブサイトによれば、「水の化身とされる観音様に見守られて、こんこんと湧き出る霊峰・白山の伏流水を仕込み水に、酒造りの神様とも呼ばれる農口尚彦の酒が生まれます」。

能登出身で祖父も父も杜氏
がっしりした肩、厚い胸。「学生のころは相撲をやっとった」という。歩行器や杖を使うが、黒いスニーカーの足取りは軽い。「結構せっかち」とスタッフは笑う。肉厚で大きな手。生命線が手首まで深く延びている。ふだんは眼鏡もなしの一方、40代半ばから総入れ歯だ。「麹は噛んで硬さや味を何度も確かめる。いちいち歯を磨いている暇はないので、虫歯は杜氏の持病です」
能登半島で生まれた8人きょうだいの末っ子。上の6人は生後すぐ亡くなったという。農口さんも生まれたときは呼吸していなかったが、産婆さんが脚を持って逆さに振り、助かったと聞いている。生まれつき、生命力が強いのかもしれない。
20軒ほどの集落に杜氏が7人いたという、造り酒屋への出稼ぎが盛んな地域の出身だ。祖父も親父も能登杜氏だった。酒造りは冬。半年間自宅を離れて雇われ先の酒蔵に住み込み、正月も戻らない。「おじいさんは27人の蔵人を連れ、わらじを履いて振り分け荷物で三重まで歩いて行ったそうです。わしが2歳のとき、亡くなったんですが、酒造りに失敗して酒を腐らせたことは一度もない杜氏として知られ、わしのことを後継者ができたと喜んだそうです」

28歳で杜氏に 吟醸酒ブームの先駆けとなる
中学卒業後の1949年、「酒は米が原料だから食うに困らんじゃろ」と言われて静岡で修業を始める。「向いとったのか、おじいさんの血か」。夢中になって酒造りを勉強し、東京・滝野川にあった醸造試験所(現・酒類総合研究所)に通って醸造の理論も学んだ。
28歳のとき金沢国税局鑑定官(課税対象である酒に関し、技術指導などをする役人)の紹介で、石川県鶴来町(現・白山市)の菊姫合資会社に杜氏として抜擢された。社長の柳辰雄さんは京大出身で、銀行員を経て家業を継いだ学究肌。母親の世話を妻にまかせず、洗濯なども率先した優しい人だった。「この人に会えて本当によかった。人生の始まりです。この人のために完全燃焼したいと思う人やった」
「良い酒を造ってくれ」という柳社長の言葉を受け、いよいよ自分の酒を造れると張り切って、静岡や三重で覚えたすっきりした酒を造った。ところが、鑑定官は褒めてくれたものの客には「薄い」と酷評されてしまった。地元の客は山仕事をする人が多く、肉体労働の後に飲む酒には濃い味を求めていたのだった。飲む人が求める味を造らなければならないと痛感した。
良い酒を求める試行錯誤が始まった。入社6年目、全国新酒鑑評会で看板商品の「菊姫」が金賞を受賞。米を削って米本来の味を引き出した大吟醸を1968年、他の蔵に先駆けて発売した。人工的に乳酸を添加する「速醸」が一般的だったにもかかわらず、天然の乳酸菌の力で米の旨みを引き出す「山廃仕込み」を復活させた。手間も日数もかかるため廃れていたが、京都の老杜氏を訪ね、技を学んだ。当時、多くの小さい蔵は自前の酒を原料用として大手メーカーに売る「樽売り」をしていたが、柳社長は「お客さんの顔が見えない商売はしない」と頑なに拒んでいた。柳社長は読書を勧め、他の蔵の見学や研修など農口さんの希望を受け入れ、設備投資も惜しまなかった。
「菊姫」が全国新酒鑑評会金賞を連続受賞し、愛飲家から注目されるようになる。
柳社長と農口さんの個性ある酒造りは、業界の時流とは逆だったが、その姿勢は結局、吟醸酒ブーム、地酒ブームの先駆けになった。実は2人とも酒を飲めない。だからこそ、酒そのものの味に五感を研ぎ澄ませ、客の声に耳を傾けて工夫を重ねたのだろう。

米の旨みが生きてない酒は酒じゃない
菊姫合資会社を65歳で定年退職したが、他の蔵から杜氏への誘いがかかる。石川県内の2つの蔵で杜氏を務め82歳で退いたが、84歳になると、またお呼びがかかった。
石川県小松市を本拠に遊戯施設などを運営する会社が出資し、農口さんを招いて2017年、農口尚彦研究所を設立した。
「研究所」という名称には、「旨い酒を極め、技術を継承する場に」という思いを込める。用地は93メートル掘って最適な水が出た現在の場所に定め、蔵の設計にも要望を出した。
「お客さんが喜ぶ酒を造る」は、一貫している。
「米の旨みが生きてない酒は酒じゃない」。柔和だったまなざしが、強い光を放った。
口の中では味わい深く、飲み込んだときにスカッとしたキレがある「またすぐ飲みたくなる酒」を醸(かも)す。「吟醸酒を飲んだ後で食事をするというこれまでの飲み方ではなく、食中酒として世界中に広めたい。どろどろした肉料理に負けん味や」
喉にべたっと甘みが残る酒は、雑味がある証拠だという。「米を削れば削るほど雑味は少なくなるが、米の旨みは失われる。でも冷暗所で3年、5年と熟成させればいい味に、高貴な味になる」。そこで、720ミリリットル瓶21万本分を保管する熟成庫も建てた。
海外も視野に、新たな日本酒ファンの拡大を意識してか、ラベルはスタイリッシュ。ロゴマークは農口さんの「の」と利き酒用猪口の底に描かれる蛇の目をデザインしたという。

「おいしい」と喜ぶ笑顔を夢みて
商品開発にも力を入れる。ウイスキーのブレンダーとともに、開業当初から造りためた原酒9種をブレンドした「夢造」、外国人富裕層らも顧客という長期間熟成酒などもそろえ、米焼酎も販売。「夢造」は能登の紙すき職人が手掛けた和紙をラベルにし、収益の一部を能登半島地震の復興支援義援金に充てている。「夢造」の名は、お客さんがにっこりして「あー、おいしいな」という顔を夢みながら酒を造る農口さんの情熱を表す。製品は約35か国・地域に輸出しているという。
金沢大学の学生とともに有機米を使った酒も造った。金沢駅構内に立ち飲みの「SAKE食堂」も出店し、車中でも楽しめる小瓶や肴も用意して、気軽に立ち寄れるようにした。

研究所近くに住む。4月から9月は研究所を訪れて試飲するお客さんの感想に耳を傾け、10月から3月の仕込みでは酒造りの陣頭指揮をとる。娘2人は酒の道に入らなかったが、女性1人を含む十数人が全国各地で杜氏となり、農口さんの酒を継承している。イタリアに進出した人もいるという。
仕込みは10月20日から。8人の蔵人と寝食をともにし、昼夜を分かたぬ作業に取り組む。熟練の技と勘、科学的知識やデータ分析の集大成から「わしの酒」が生まれる。
「何千人、何万人がわしの酒を飲んでくれるか。それが最後の勝負や」
撮影:丹羽 諭
プロフィール

- 農口 尚彦(のぐち なおひこ)
- PROFILE
「農口尚彦研究所」杜氏(とうじ)。1932年石川県内浦町(現・能登町)生まれ。1949年から、静岡県、三重県の酒造会社で修業。1961〜1997年、石川県鶴来町(現・白山市)の菊姫合資会社で杜氏を務め、大吟醸を発売し、山廃仕込みを復活。日本航空ファーストクラスで供される酒に採用。1998〜2012年、石川県加賀市の鹿野酒造で杜氏。2006年、現代の名工に認定。2008年、黄綬褒章受章。2013年、杜氏に復帰したが、2015年に退職。2017年、農口尚彦研究所の杜氏に就任。全日空のファースト・ビジネスクラスの機内提供酒に選ばれる。2023年、文化庁長官表彰受章。2024年、「いしかわ食の巨匠」顕彰。2026年、石川県無形文化財「日本酒杜氏」指定。連続12回、通算27回全国新酒鑑評会金賞受賞。
※役職・肩書きは取材当時(令和8年10月)のもの
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