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いつも元気、いまも現役(文化勲章受章・写真家 田沼武能さん)

公開日:2020年2月14日 09時00分
更新日:2020年4月24日 12時28分

オイ、それ撮るな!翌日、文化勲章の発表

 田沼さんの自宅でのインタビューの最中、同行のカメラマンに「オイ、それ撮るな!」と田沼さんは声を上げた。鴨居(かもい)に飾ってあった紫綬褒章の表彰状にカメラを向けたときだった。「勲三等もあるけど、そういうものを鼻にかけるのは嫌いだ。こっちならいいけど」と指さしたところには菊池寛賞の表彰状があった。

 菊池寛賞は文芸など文化分野で業績をあげた個人や団体に贈られる賞で、田沼さんは1985年に受賞している。

 インタビューの翌日、昨年10月29日の夕刊各紙は1面で田沼さんの文化勲章受章を伝えた。写真の分野では初めての受章となる。

浅草の田沼写真館の次男坊 空襲で九死に一生を得る

 田沼さんは1929(昭和4)年2月18日、東京・浅草の写真館の家に6人兄弟の次男で生まれた。小学校に通う道すがらに仏像を彫る家があった。それで彫刻家になろうと思ったが、父親に反対され、建築家に妥協した。

 16歳の1945年3月10日、東京に大空襲があった。自宅周辺は火の海に包まれた。道路には逃げる人でいっぱいで、どうにも身動きがとれない。田沼さんと父親は、「ガスタンクがあって爆発するかもしれない」と恐れて、人がまばらな方向に自転車を走らせた。竹ノ塚方面に逃げようと鐘紡の工場の土手まで来たが、メラメラと炎が土手を越えていた。熱さでこれ以上は無理と、反対方向に戻り、隅田川の河畔の原っぱで一夜を明かした。「もし引き返さずそのまま進んでいたら死んでいたでしょう」

 自宅に戻ると、家は全焼していた。自宅前の熱で水が枯れてしまった防火用水槽に3歳くらいの子どもが燻製のように黒焦げになって直立不動の姿で亡くなっていた。「その姿はまるでお地蔵様のようだった」。そのときからお地蔵様は子どもの化身だと思うようになった。

 中学生のとき、野外での軍事教練の後、ゆで小豆をつくるために砂糖と小豆を持っていったが、小豆はパラパラで甘くない。「こんなはずはない」と、酒を飲み宴会をしていた教師に文句をいうと、軍人の教師が軍刀を抜いて脅してきた。

 この事件がきっかけで田沼少年は"素行不良"の烙印を押されたため、建築家になろうとめざしていた早稲田大学の第一高等学院の第一次試験の内申書で2度落ちてしまった。

写真の道に進み木村伊兵衛に師事

 東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)に進んだが、写真にはさほど興味はなかった。1年目は進駐軍のクラブでウェイターをしたり、極東軍事裁判所で書類を複写するアルバイトに明け暮れていた。2年目になると、「このままでは人間がダメになる。どうせやるならアメリカの『LIFE』誌のようなグラフ・ジャーナリズムの世界に入りたい」と、学校の仲間たちと報道写真部をつくり、新聞社の写真部員に交じってメーデーのデモなどの取材に走っていた。

 卒業した1949年は新聞社で写真部員の公募がなく、NHKの写真部の受験にも失敗。そこへ学校の先輩でもある兄の友人に「サンニュースフォトスで人を探している」と教えられ、面接を受けるとすぐに採用された。

 この会社は、伝説的な写真家の名取洋之助が編集主幹となり『週刊サンニュース』を発行していたが、入社直前に休刊が決定した。この会社の顧問格に巨匠・木村伊兵衛(いへい)がいた。はじめは「助手なんかいらねえよ」と弟子入りを断られたが、木村の作品や撮影技法に胸を打たれていた田沼さんは懇願を続け、ようやく"押しかけ助手"に認めてもらった。

 木村の写真の撮り方は、「居合抜き」だ。前から歩いてくる人を撮るとすれば、シャッターを押すまでに被写体との間合いや露出、シャッタースピード、その人物がどこまで来たときに背景がどう写るのかまで、瞬間的に計算してしまう。それはまるで"スーパーコンピュータ"だ。そして被写体がその場所に来たら、パッと2、3枚撮ってそれで終わり。まさしく居合抜きの写真術だ。

写真1:インタビュアー田沼さんが愛用のカメラを持つ様子を表す写真。
愛用のカメラを手に。艶も若々しく、とても90歳には見えない

ライカを手に入れたが写真はカメラではないと知る

 「ライカ1台、家1軒」と言われたほどドイツ製のカメラのライカは高価なものだった。木村伊兵衛が使っていたからと、田沼さんは1年間、飲まず食わずの節約でアルバイト、とうとう念願のライカⅢCを5万円で手に入れた。

 しかし、写真のできは師匠とは雲泥に差。そこで「写真はカメラではない」ことを知る。

 「『写った』と『写した』ではまったく違う。写真は写している人間の心が相手に伝わって写真となります。撮る人の感動が伝わらないと、心を打つ写真はできません」

LIFE』と契約 子どもの写真をテーマに

 1950年、新潮社から『芸術新潮』が創刊され、木村伊兵衛から「小回りのきく若手写真家」という推薦で写真を任された。サンニュースフォトスは赤字で給料が出ない、在籍のまま新潮社の嘱託となった。この仕事で横山大観、川端康成、小林秀雄、柳田國男、中谷宇吉郎といった大家に接することができた。

 売れっ子になった田沼さんは木村伊兵衛からこうも言われた。「いつまでもそんなことをしていたら、マスコミに潰されてしまうぞ。お前は頼まれ仕事をこなしているだけで、自分の作品がないじゃないか。チューインガムと同じで、味がなくなればポイと捨てられるだけだ」

 仕事の忙しさを、自分の評価と勘違いしていた。ライフワークを模索しているとき、『LIFE』と契約する話がきた。ニューヨークのタイム・ライフ本社で契約と研修を終え、休暇で訪れたパリのブローニュの森で、夢中になって遊ぶ子どもたちの姿に魅せられ写真を撮った。

 「そうだ、世界の子どもたちをテーマに写真を撮れないだろうか。今、世界の国々の子どもはどう生きているか、現状をたくさんの人に伝えたい」。このことが子どもの写真をライフワークとする契機となった。

写真2:写真機に囲まれたインタビュアー田沼さんの部屋の様子を表す写真。
写真機に囲まれた自室では座ったままで用事はできる

子どもは社会の鏡、時代の鏡 空気のようになって撮る

 「子どもは大人と一緒に暮らしていても、波風は子どもに強く当たります。だから子どもは社会の鏡、時代の鏡になる。

 子どもを撮るときは、子どもと遊んではダメです。空気のように、電信柱のようになります。私の存在が強くなると、子どもは私のカメラに興味を持つ。近寄ってカメラに触りたがる。子どもは仲間同士で遊んでいるときが一番表情がいい。大人が介在すると本当の子どもは撮れません。大人がこうやれと指導したら、それは子どもの意思ではない。そこには本人の魂はありません。子どもは常に何か面白いことないかと探しているものです。その点、今の日本の子どもは人間的ではありません。勉強しようと思って生まれてきたわけではありませんから」

 世界125か国以上の国の子どもたちを撮影してきた。その中にユニセフ親善大使の女優の黒柳徹子さんとの仕事がある。1984年から35年間、同行取材を続けてきた。タンザニア、アフガニスタン、アンゴラなど39か国を訪れ、子どもの写真を撮り続けてきた。昨年もレバノンを訪問した。

写真3:書歴の長いインタビュアー田沼さんが書いた童心浄土の書を表す写真。
自筆の「童心浄土」の書。書歴は長い

武蔵野に憧れ現役写真家を続ける

 1995年から日本写真家協会会長を20年間務めた。写真展に会長が来るということが、会員の大きな励みになっていた。そこで出されるお酒を飲んで、次の会ではもう飲めないということでは失礼に当たる。そう考えて酒はきっぱりとやめた。もう24年になる。

 タバコは20歳のころにやめた。毎日、夜12時に寝て朝5時には起きる。「日中うとうとすることもあるから、合計6時間くらいでしょう。武蔵野の日の出を取材するときは4時には起きます」

 田沼武能と7人の仲間による「それぞれの武蔵野」写真展は5回を数える。車の免許を返納したので、このメンバーの車に乗せてもらうことが多くなった。

 「武蔵野は子どもと並ぶ大きなテーマです。浅草生まれ、浅草育ちだから武蔵野に憧れがあるのでしょう。以前、谷保天満宮の結婚式の様子を撮って写真集にしたところ、直木賞作家の山口瞳さんから『知り合いが写っているから本がほしい』と連絡があって、国立(くにたち)市の山口さんの家に行きました。それが週刊新潮の連載『男性自身』にたたび登場する"国立村"とのお付き合いの始まりです。山口さんは亡くなられましたが、"村民"には100歳になる彫刻家の関頑亭さん、エッセイストの嵐山光三郎さんらがいます」

 日本料理を中心に3食たべる。「よくそんなに食べますね」と言われるくらいの健啖家(けんたんか)だ。4年前に自宅の階段から落ちて怪我をした。

 「頭も打ったようだけど、それで少し頭がよくなりました」と豪快に笑った。

(2020年1月発行エイジングアンドヘルスNo.92より転載)

プロフィール

写真:インタビュアー田沼武能氏。
田沼武能(たぬまたけよし)
 1929(昭和4)年2月18日、東京・浅草の写真館の家に6人兄弟の次男として生まれる。東京都立江北中学校(現・東京都立江北高等学校)を経て、1949年に東京写真工業専門学校(東京工芸大学の前身)を卒業し、サンニュースフォトスに入社。木村伊兵衛に師事。1950年に日本写真家協会の設立に参加。1953年にサン通信社へ移籍。1959年にフリーランスとなる。1965年にアメリカのタイム・ライフ社の契約写真家となり、このころから世界の子どもたちの撮影を始める。1984年から黒柳徹子ユニセフ親善大使の親善訪問に同行して35年。1990年に紫綬褒章、1995年に日本写真家協会会長、東京工芸大学教授。2003年に文化功労賞。2015年に日本写真家協会会長を退任。2019年文化勲章。写真集に『東京わが残像』『時代を刻んだ貌』(クレヴィス)など多数。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌 Aging&Health No.92

Aging&Health(エイジングアンドヘルス)No.92(新しいウィンドウが開きます)

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