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いつも元気、いまも現役(プロパイロット 髙橋淳さん)

公開日:2019年11月29日 09時00分
更新日:2021年2月18日 11時48分

パイロット志望が太平洋戦争で一変

 "飛行機の神様"と呼ばれる95歳の現役パイロット、髙橋淳さんがいる。「今でも天気がよければ毎週、静岡の飛行場に行って、飛行機に乗っていますよ」

 身長180センチと、この年代では大柄な身体だが、体重は60キロとスマートな体形。しゃれたシャツにスリムなGパンを着こなし、颯爽と大股で歩く。これまでの飛行時間は2万5,700時間以上、飛行距離は実に地球130周を超える。

 「よく俳優が『舞台で死にたい』というでしょ。それって周りには実に迷惑な話です。私は『飛行機で死にたい』なんて絶対にいいません。安全に飛んで、無事に帰ってくることが一番大事です」

写真1:九州の出水基地で撮影された23歳の高橋淳さんの写真。
1945年5月、沖縄作戦中に九州の出水(いずみ)基地で撮影された23歳の髙橋さん

 祖父は日本で薬学博士第1号となった医師の髙橋秀松、父も大学卒後、ドイツに留学した医師。4人兄弟の末っ子として生まれたが、上の姉とは9歳も離れていたため、まるで1人っ子のようなお坊ちゃん育ち。

 東京・赤坂溜池に髙橋病院を持ち、霊南坂に本宅、大森、箱根などに別荘を構える裕福な家庭で、大森の生家には硬式テニスコートがあった。目黒の競馬場にも馬を所有していたという。

 髙橋さんは子どもの頃から模型飛行機づくりに夢中になるなど、大の飛行機好き。16歳のときに新聞社が主催するグライダーの講習会に参加し、初めて操縦体験をした。それからパイロットになることを心に決めた。

写真2:高橋淳さんが茨城県上空を飛ぶ様子を表す写真。
2003年11月、茨城県上空を飛ぶ髙橋さん

 「どうせ大学に行っても20歳で徴兵検査を受けることになる。それならと海軍飛行予科練習生になろう。4、5年経ったら民間のパイロットになると考えていました。当時、予科練に入るには大変な倍率で、本気で勉強したのはその時でした。おふくろは『どうせ音を上げて1、2か月で戻ってくる』と思っていたようです」

 翌年、太平洋戦争が始まって状況は一変した。

「何としても生きて帰ってくる」と部下に「遺書は書くな」といいました

 乗ったのは一式陸上攻撃機という翼の長さは25メートル、胴体が20メートル、重さは15トンと、海軍一の大型攻撃機。YS11を少し小ぶりにした大きさだ。

 乗組員は操縦士、副操縦士、ナビゲータをする偵察員、整備員、無線通信員2人、そして一番後ろで機関銃を構える兵士の計7人が本来の編成だ。しかし、昭和18年の秋頃から負け戦が続いて、この大型機を副操縦士と無線通信員1人ずつ抜きの5人編成で行うことになった。

 「通常、副操縦士を経験してから正操縦士になるはずだったのが、いきなり正操縦士、キャプテンですよ。敵艦に魚雷を落とすのも操縦士です。甲板の上の大砲は下を向かないから、敵艦のすぐ前まで海面3メートルの超低空で近づいて魚雷を落とす電撃作戦を行っていました。敵艦からは雨あられのように弾が飛んでくる。それを避けるテクニックが『横滑り』といって、機体を横にスライドさせる。体がちぎれるような強烈な横Gがかかる、とても危険な操縦法です」

 魚雷が当たるのは2割くらい。しかし、10機飛び立ったら、半分の5機は帰って来られなかった。とても割に合わない作戦だ。

 「僕が死んだら乗組員も死ぬ。何としても生きて帰って来ようと、部下に『絶対に殺させない。遺書は書くな』といっていました」

 「終戦のときにはとうとう鹿児島の基地には僕の飛行機1機だけになりました。予科練同期の840人はわずか100人少々です。出撃前に敵機だらけの空を見て、『今日は危なそうだ』といった人や、遺書を書いていた人は生還できませんでした。なんとなく出撃前にわかるものです。すでに精神的に負けてしまっていたからでしょう。

 よく『運がいい』といわれますが、運は待っていても来るものではありません。最善を尽くすから来るものです。パイロットはパニックになったら終わりです。精神力が強くないといけません」

 米軍はパイロットの体を守るために防弾設備がしっかりしていたが、日本の海軍は機体を軽く性能をぎりぎりまで追求したため防弾設備はなかった。

 髙橋さんの飛行機は何10発も被弾したものの、エンジン、燃料タンク、乗組員には被弾せず、墜落は免れた。

写真3:高橋氏が飛行機に乗る様子を表す写真。機体を入念にチェックすること、安全第一が大切である。
「安全第一」が何より。乗る前に機体を入念にチェックする

赤十字飛行隊隊長として被災地救援で活躍

 終戦後、連合軍は航空禁止令を出したため、23歳の髙橋さんはパイロットとしての仕事はできなかった。1952年にこの禁止令が解除されたため、翌年、予科練の仲間と日本飛行連盟を設立して、セスナ機でパイロットの養成を始めて、髙橋さんは教官として働くこととなった。

 49歳のときに日本飛行連盟を辞めて、フリーのパイロットになった。映画撮影のための飛行機操縦、地図を作成するための写真撮影、広告用に飛行機で絵文字を書く操縦、天然記念物のトキを運ぶ仕事などさまざまな仕事をしてきた。

 日本飛行連盟が軌道にのった1963年に飛行機を使った災害援助をボランティアで行おうと、日本赤十字社本社直轄の特殊奉仕団である赤十字飛行隊を設立した。髙橋さんは現在この隊長でもある。

 「2016年の熊本地震のときにはいち早く出動して被災地に救援物資を届けて大いに感謝されました。隊長の命令一過、すぐに対応できるため、自衛隊よりも1日早く動けました」

 パイロットには毎年「航空身体検査」があり、これをパスしなければ操縦を続けることはできない。大きな病気がないか、視力や聴力の検査もある。視力は裸眼で0.7以上を求められるが、髙橋さんは1.0の視力を維持していて、検査数値もここ10年変りはなく、毎年パスしている。

写真4:高橋氏がせっかく生まれてきたのだから、死ぬまで進歩したいと語る様子を表す写真。
「せっかく生まれてきたのだから、死ぬまで進歩したい」

肝を冷やしたテストパイロットの仕事

 「僕はね、飛んだあと、毎日反省しているのです。『速度の落とし方が甘かった』『こうすればもっと上手に着陸できたな』とかです。生涯で満足した操縦ができたのは1、2回でしょう。

 ベテランとアマチュアの違いは何でしょうか。飛行時間の長いベテランといわれる人が事故を起こすと、大きな事故になります。自信を長年持っていると過信になるからでしょう。

 50歳の頃から"飛行機の神様"といわれていましたが、ある日、着陸するとき思い通りにいかなくなって、自分のあらが見えてきました。たぶん、もう1人の自分がここにいて、冷静に『こっち、あっち』とアドバイスしてくれているのでしょう」と頭の後ろに手を当てた。

 「何でそんなに反省するのかって?そりゃあ、進歩したいからですよ。せっかく生まれてきたんだから、僕は死ぬまで進歩したいのです」

 アメリカでは当たり前だが、素人がつくった飛行機というのが日本にもある。それを操縦するのがテストパイロットの仕事だ。髙橋さんはこの仕事も数多くこなした。

 「そば屋の親父や大工の棟梁が見よう見まねでつくった飛行機だから、設計図を入念にチェックして飛ぶ前に滑走路を行き来して、機体のクセを知ったうえで飛ぶ。友人からは『そんな仕事は危険だから辞めたら』と何度もいわれたけれど、それも操縦の怖さ半分、楽しさ半分と結構気に入ってやっていました。

 ただし1度だけ、機体を組み立てたあとに設計図を書いたと知ったとき、肝を冷やしたことがあります」

医師の家系から親子3代の飛行機の家系に

 息子さんは測量会社で地図づくりのパイロット、その奥さんもキャビンアテンダント、お孫さんは来年から航空会社の乗員養成に入ることが決まった。医師の家系は飛行機の家系に変わった。

 「飛行機は女性を扱うように丁寧にが基本です。フランス語でも飛行機、車、船はみんな女性名詞です。4人乗りのセスナ機は大学出たての純心なお嬢さんで、無理がききません。6、8人乗りのベンツ級の飛行機は35~40歳のお金持ちの未亡人、アクロバット飛行をするような飛行機は10歳代のじゃじゃ馬娘のようなものです。

 それぞれの性格をわきまえて余裕を持って操縦します。100%でものごとをやったら続きません。80%を確実にやれば満点でしょう。無理をしてはいけません。時間にゆとりがあるのなら90%や100%をめざすこともできるのですから」

 「パイロットの練習には飛行機代、指導料と大きなお金がかかります。それでも練習が終わって『今日は楽しかった。ありがとう』といわれるのがプロの仕事です。銀座のクラブに飲みにいけば、何万円というお金がかかりますが、それでも客から『楽しかった。ありがとう』といわれる。これがプロの仕事です」

 「空を飛ぶという好きなことして生活ができたことは幸せです。好きでなければいい仕事はできません」といって颯爽とした足取りで去っていった。

写真5:高橋氏がインタビュー後に颯爽とした足取りで去る様子を表す写真。
颯爽とした足取りで去っていった

撮影:丹羽 諭

(2018年1月発行エイジングアンドヘルスNo.84より転載)

プロフィール

写真:インタビュアー髙橋淳氏
髙橋淳(たかはしじゅん)(東京都 プロパイロット)
1922年(大正11年)10月8日、東京・大森生まれ。2014年に世界最年長プロパイロットしてギネス公認。18歳で甲種飛行予科練習生として海軍に入隊し、太平洋戦争に一式陸上攻撃機の操縦士として従軍、南方の激戦を生き抜く。戦後、民間飛行機会社に操縦士として就職を希望するが、操縦士はアメリカ人に限られていたため断念。49歳からフリーのパイロットとして活躍。専門の小型飛行機を含めて50種類以上の飛行機を乗りこなす。国際航空連盟のポール・ティサンディエ賞、国土交通大臣・厚生労働大臣賞など受賞。一般社団法人日本飛行連盟名誉会長、赤十字飛行隊隊長。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌Aging&Health No.84

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