いつも元気、いまも現役(スピードスケートギネス記録保持者 丸茂伊一さん)
公開日:2025年7月18日 09時00分
更新日:2025年7月18日 11時35分
こちらの記事は下記より転載しました。

オリンピック選手を育てた国際スケートリンク
5月中旬に東京から標高800メートルの長野県茅野市にやってくると、気温は下がり、ひと月くらい前の初春に戻った感じ。青々とした緑がまぶしく山桜と藤が同時に咲いていた。
これから85歳から始めたスピードスケートのギネス記録保持者の丸茂伊一さんに会いに行く。茅野駅から車で15分ほどのご自宅の玉川地区は、茅野市国際スケートリンクなどがある広大な茅野市運動公園を抜けたところにある。この国際スケートリンクができたのは1989年、丸茂さん60歳の時だ。丸茂さんらが市長に陳情して、ようやく実現にこぎつけた。平昌五輪の金メダリストの小平奈緒のホームリンクでもある。

何事にも必死で取り組んできたお人柄
丸茂さんのご自宅の応接間に通されると、ギネスの盾、優勝トロフィー、記念写真などがずらり、ソファーの足元にはアルバムや資料がぎっしりと並ぶ。同居している娘さんは「普段この部屋には入ったことがありませんので」と話し、ストーブを用意してくれた。
ブレザー姿で現れた丸茂さんは杖もつかず、しっかりとした歩きぶり。「この歳になるとちょっとしたことが出てこなくって」とインタビューに伺った私たちにお茶を何度も勧めた。しかし、しゃべり出したら止まらない。毛筆が上手で重宝された軍隊時代の話、セルリー(セロリ)栽培など農業の話、スピードスケートでロシア遠征したことや日中友好協会で訪中して万里の長城を訪れた思い出など、切れ目なく話は続いた。
記憶力はとても衰えた感じはしない。繰り返す言葉に「死にものぐるいで」と、何事にも必死で取り組んできた丸茂さんの真面目なお人柄が表れている。
「よく記念写真で『笑ってください』といわれて笑ってみるけれど、後で見ると笑っていないんですよ。これって性格なのかな」
この家には娘さん夫妻と一緒に住む。向かいにはセルリー栽培を継いだお孫さんなど5人が住んでおり、賑やかな様子だ。
身長があと2cm高かったらここにはいなかった
丸茂さんは1929年(昭和4年)4月1日長野県茅野市で生まれ、今年で96歳。長男の丸茂さんと次男の2人のほかは女性5人という7人きょうだい。
旧制岡谷中学の第1期を卒業後、「お国のために命を捧げるのは当然のこと」と陸軍特別幹部候補生をめざした。父親の印鑑をこっそり持ち出して東京で受験したものの、身長が155cmに2cm足らずに不合格。父親は長男の軍隊入りを「そこまで思っているなら」と、のちに許してくれた。
翌年には「身長を測る人は手元の目盛しか見ていないから」と、思いっきり背伸びをして見事に合格した。しかし、1期上の幹部候補生は戦地に赴き、少なからず戦死したという。
「身長があと2cm高かったら、戦場に行くことになり、今ここにはいなかったでしょう」
加古川陸軍航空通信部隊でモールス信号を覚え、毎日、特攻隊員としての教育を受けた。16歳で終戦を迎え、故郷の茅野に戻って実家の農業に携わることになった。
短歌雑誌「ヒムロ」の編集発行人も
復員後、短歌も始めた。短歌同人の「下萌」や「波里道」に入会後、廃刊となった。翌年、18歳で「アララギ」「ヒムロ」に入会。1998年で「新アララギ」に入会。短歌雑誌「ヒムロ」の編集発行人は今でも続いている。信州市民新聞グループや長野日報の文芸欄短歌選者でもある。2012年には歌集『宇宙のはてに』も出版した。
亡き妻を恋ほしみて立つゴビの砂漠更けゆく夜を月にむかひて(追憶)
奥様を1993年に亡くしている。
「編集発行人を誰か代わりにやってくれる人がいれば」と、しばらくは続けそうな勢いだ。
農業でも天皇杯に輝く
持ち前の生真面目さと何事にも"死にものぐるいで"取り組む努力家であることが地域で認められるようになり、23歳で地元玉川地区の青年会長、33歳でセルリー(セロリ)栽培で玉川洋菜組合長、34歳で諏訪洋菜農業協同組合を設立して組合長となった。
「日本一のセルリー産地をつくろう」という努力は大きく評価され、NHK全国優秀農業賞(現・日本農業賞)、農林大臣賞、第9回農業祭で天皇杯に輝いた。
また、33歳で茅野市議会議員になり、45歳まで3期12年続けた。
85歳で「金メダルとれるから」といわれて始めた
スピードスケートは小学生のときから始めていた。当時は田んぼに水を張り、下駄に金属をつけた下駄スケートだ。刈り取った稲の穂が頭を出していれば、それを削る用具を村の鍛冶屋さんがつくってくれた。
丸茂さんがスピードスケートの全国大会に出るようになったのは85歳(2014年)からだ。
茅野市の短歌仲間でスケート仲間の榛葉さんに、「85歳を過ぎた年でスケートをやっている人はいないから、金メダルとれるよ」と言われたことから大会に出るようになったという。

ロシア国際大会から世界各地でチャレンジ
2018年3月、ロシアでの国際マスターズスプリントゲームズモスクワ大会で初めてギネス認定。それが初めての海外チャレンジだ。成田空港まで行ったのに古いパスポートを間違えて持っていき、茅野市の自宅まで引き返した。次の飛行機にはファーストクラスしかなく、仕方なくその航空券を手配して、ロシア大会前日に入国。
懇親会では短歌を披露して会場を沸かせた。まさに「文武両道を貫く人」だ。

歳を重ねるたびにギネス更新
2020年3月、カナダ・カルガリーで行われたスピードスケートの国際マスターズスプリントゲームズカルガリー大会で、男子90歳部門1000mで世界記録。短距離2種目を計4レース行うスプリント総合4種も世界記録。
日本冬季マスターズスポーツ協会によると、丸茂さんは2019年に500mで世界記録を出しており、「男子90歳部門のスプリント3冠達成になる」という。
これを最後に出場大会は国内にしぼり、2年ぶりに福島県郡山市で開催された全日本マスターでギネス更新が認められた。
2023年2月、青森大会で世界最高齢のスピードスケートで、自身が持っていたギネス記録を更新した。
歳を重ねるたびに、ギネス記録を更新して、他の追随を許さない境地に入ってきた。
インタビュー前日にはお電話で「みなさんを軽自動車でセルリー畑をご案内しましょう」と言っておられたが、あいにくの天気と切れ目ないお話で時間切れとなってしまった。
いくつになっても挑戦を続ける
90歳から始めたボウリングも上達してきた。その時代その時代を農業、短歌、市議会議員、スピードスケートといろいろな分野で必死に生き、挑戦を続けてきた丸茂さん。いくつになっても挑戦を続ける姿に、驚きと羨望を抱いてしまう。
96歳といえば十分長寿といえるが、その長さだけではなく人生の生きがいや意味を感じさせる丸茂さん。
この青き地球探査を企つる星もあらむか宇宙のはてに
撮影:丹羽 諭
プロフィール

- 丸茂 伊一(まるも いいち)
- PROFILE
1929年(昭和4年)4月1日、長野県茅野市生まれ。7人きょうだいの長男。岡谷中学1期卒業。軍隊志願、加古川陸軍航空通信部隊、加古川教育隊、終戦復員後、就農。1962年玉川洋菜組合長・長野県清浄洋菜組合連合会会長。1963年から4年間、諏訪洋菜農業組合組合長。1975年から2002年まで日本農林漁業振興協議会副会長を務める。1945年復員後に始めた短歌では、1947年「アララギ」「ヒムロ」入会、1998年「新アララギ」入会、2002年から「ヒムロ」代表・編集発行人、2008年に日本歌人クラブに入会。85歳からスピードスケート大会に出場し、ギネス記録を次々に打ち立てた。著書に歌集『宇宙のはてに』(現代短歌社)がある。
※役職・肩書きは取材当時(令和7年7月)のもの
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