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いつも元気、いまも現役(ジャズクラリネット奏者 北村英治さん)

公開日:2019年9月11日 10時52分
更新日:2019年9月26日 11時05分

音楽好きの父と気丈夫な母の9人兄弟の末っ子で育つ

 北村さんは1929年(昭和4年)4月8日、東京都渋谷区の現在の松濤(しょうとう)で9人兄弟の末っ子として生まれた。父政治郎はNHKの前身の東京放送局の技師長、母イチは戦国時代の武将の佐々成政の直系で新潟出身。

 父は世界で初めて実用化されたTYK式無線電話機の開発者。TYKとは逓信省電機試験所の技師・鳥潟右一、同僚の横山英太郎と北村政治郎の3人の頭文字。

 父親がロンドンにいるときに生まれた北村さんは五男だから「五郎」となるはずが、父がいた英国の「英」と政治郎の「治」をとって「英治」と名づけられた。

 父はイタリアでバイオリンを買って娘に音大に進むように言うくらい音楽好きで、家にはクラシックのレコードがたくさんあった。

 その中に1枚だけ世界的なジャズクラリネット奏者であるベニー・グッドマンの「ドント・ビー・ザット・ウェイ」があった。おそらく兄が買ったものだろう。友だちに「うちにすげえレコードある」と言うと、「聴きたい」と言うので自宅に連れてきて聴いた。そうしたら母が血相を変えて来て、「こんなの聴いていたら憲兵に捕まるから、押し入れの中で聴きなさい」とポータブル蓄音機を持って来た。押し入れで、汗びっしょりで感激を分かち合った。

 1945年5月の空襲で家もレコードもみんな焼失してしまった。1週間ほど経つと焼け跡に雑草が生え始めた。「雑草は強いなあ」と言うと、気丈夫な母は「人間はもっと強いよ」とピシャリとひと言。北村さんが16歳のときだった。

 1957年ベニー・グッドマンが音楽文化使節として来日した際、北村さんもジャムセッションに参加できたのは1枚のレコードからの運命的な出会いかもしれない。

池田彌三郎が中学校の担任べらんめい調で生徒に人気

 「おう、3人で来たか。ならば麻雀やろう」。終戦直後の中学校(慶應義塾商工学校)3年生だった北村さんの担任は、後に国文学の大家となる池田彌三郎だった。復員直後で坊主頭だったのを隠すために赤いベレー帽をかぶって授業をしていた。銀座の天ぷら屋「天金」の次男坊として生まれた池田先生は気風(きっぷ)のいいべらんめい調で生徒から人気があった。

 試験前にゴマすりに新富町にあった池田先生の家を級友と訪れた北村さんたちは先生との徹夜麻雀で試験の成績はボロボロ。先生は「社会勉強だ!今後は考えて行動しろ!」とすましていた。

 その後、慶應義塾大学時代にジャズクラリネットで腕を上げた北村さんは、学校まで誘いに来た南部三郎に大学を中退してプロになるよう勧められ、1人で決めかねて教員室へ。池田先生は「なんだおまえ、楽隊に成り下がるのか。大学辞めてもったいないと思わないのか。そんなので食っていけるのか」と言われた。

 そこで北村さんは「月給3万円もらえるのです」と言った。当時、サラリーマンの初任給が数千円の時代に破格の額だった。驚いた池田先生は「なんだそれは、泥棒か!それならおまえ、学校辞めてプロになっちゃえ。どうせ勉強も見込みがないから」と言われた。

写真1:ジャズクラリネットの名手であるバディ・デフランコと北村英治氏の初顔合わせの様子。
ジャズクラリネットの名手、バディ・デフランコと初顔合わせ。楽屋での1枚(1969年)

大橋巨泉に助けられ天才・美空ひばりとの出会い

 南部三郎のバンドを辞めて「キャッツハード」という自分のバンドを組んだ。ところがマネージャーに出演料を持ち逃げされてしまい、日々の稼ぎをすべてバンドメンバーへの返済にまわした。お金に困って麹町の安いアパートに引っ越し、鍋窯を質に入れて、ジャガイモと玉ねぎばかり食べる生活が続いた。

 そんなとき助けてくれたのが大橋巨泉だった。巨泉は早稲田大学の学生でありながら、銀座のテネシー(ジャズ喫茶)でプロ顔負けの解説と司会をしていた。一度読んだ本の内容はすべて覚えているほど頭がよく、実に面白い男だった。北村さんが笑ってしまうほど負けず嫌いなところがあって、一緒に釣りに行くと北村さんより釣れるまでやめなかった。

 食うや食わずの生活をしていた麹町のアパートに巨泉がコメと牛肉の佃煮を持って現れた。鍋窯はないので洗面器でコメを炊いた。「きたねえな」という巨泉に「煮沸するから大丈夫」と北村さんは応えた。

 バンドメンバーへの返済が済んだころ、美空ひばりと親しかった小野満から声がかかり、1957年に「小野満とシックスブラザーズ」が誕生した。お嬢(美空ひばり)の公演についていって、ジャズを歌うとき伴奏した。

 占領下だった沖縄に行ったとき、楽屋でジュリー・ロンドンが歌う『クライ・ミー・ア・リバー』のレコードをバンドメンバーで聴いていたら、お嬢が「何これ。いいわね。ちょっと貸して」とレコードを持っていってしまった。

 ところが翌日、お嬢が「あの曲歌うから伴奏して」と言い出して、みんな真っ青になって伴奏した。演奏が終わると米軍の将校が来て、「あんなに歌える日本人がいるのか。英語の発音もすばらしい」とべた褒め。北村さんは将校に「彼女は英語が話せない」と説明するものの、将校は「うそだ。からかうな」と怒り出す始末。

 「レコードをひと晩聴いただけで完璧に歌い込む美空ひばりはやはり天才ですね」と北村さん。

モンタレー・ジャズ祭に19回出演した唯一の日本人

 モンタレー・ジャズ・フェスティバルというのは、アメリカ・カリフォルニアで行われる世界最大級のジャズの祭典だ。歴史は古く、メイン会場は競馬場で7,000人のジャズファンが世界中から集まる。創設者のジミー・ライオンズが来日した際、北村さんに招聘の声がかかった。1977年に初めて出演してジョン・ルイスとのデュオで「ボディ・アンド・ソウル」を演奏した。終わると客席の7,000人が総立ちになって拍手した。

 その晩、夕食に行ったレストランでも「おお、エイジだ!」といって、拍手してくれるお客さんがいた。翌年も招かれ、合計19回の出演となった。モンタレージャズ祭はヨーロッパやオーストラリアの大ジャズ祭に招聘されるきっかけをつくってくれた。

 51歳のとき、一回り年下のクラシッククラリネット奏者(当時、東京芸大教授)の村井祐児先生に教えを請うた。「生涯現役であるならば音の幅を広げなければ」と願ったからだ。

心筋梗塞を患うがいつも幸運がそばに

 2012年に心筋梗塞をやった。突然、血の気が引いて顔が真っ白になった。「なんかおかしい」と近くにいたマネージャーに背中を圧(お)してもらったら少し楽になった。消防庁に電話を入れて病院を紹介してもらった。病院に電話を入れて医師に症状を話すと、「悪いことは言わないから、すぐに救急車で病院に来てください」と言われた。

 北村さんは意識があり、クラリネットのケースを持って歩いて救急車に乗った。救急隊員から「何ですか、それ」と聞かれ、「クラリネットです」と答えると、「そんなもの下に置いてください」と言われた。事態の深刻さがわかっていなかったのだ。

 病院に着くと10人くらいの病院スタッフが待ち構えていて、「緊急緊急」と言う声が聞こえた。すぐに手術に取りかかり、2か所詰まっていた冠動脈を再開し、1週間後に狭くなっていた1か所を拡げて、一命をとりとめた。「運がいいのでしょう」と北村さん。

 今もいたって健康で、月に10回ほど演奏の仕事をし、3時間立ちっぱなしのステージもこなす。

日々の料理やアクリル画そして彫金と多趣味

 料理の腕はなかなかのもの。それを言うと「いやあ食いしん坊なだけですよ」。アマチュアを集めた音楽の合宿では「私が賄(まかな)いになってしまいます」と笑う。テレビ番組『徹子の部屋』に出演したときには自前のアップルパイを届けた。

 20年ほど前から始めた絵もなかなかの腕前。「絵を始めたら面白くて。うまくはないけど『味がある』と専門家に褒められました」

 部屋中に自作の絵が飾ってあった。CDのジャケットやTシャツのプリントに使われたものもある。

写真2:北村氏が描いた絵が多く飾ってある事務所の様子を表す写真。
事務所の壁には自作の絵が数多く飾ってある
写真3:CD「ヴィンテイジ」のジャケットに使われた北村氏が描いたオランダの民家の絵。
オランダの民家を描いた絵は、CD「ヴィンテイジ」のジャケットに使った

 「最近はあまりやっていないけれど」と言うのは彫金の趣味。クラリネットのリガーチャ(リードの留具)は銀製の自作で、鎚目(つちめ)模様のシルバーの指輪も右手の小指に光っていた。

 「要するに遊んでいたいだけです」と肩に力を入れず、おおらかに実に人生を楽しんでいる様子だ。

写真4:北村氏のレッスンの様子を表す写真。
コルクの壁の防音設備が整った部屋でレッスン

(2019年1月発行エイジングアンドヘルスNo.88より転載)

プロフィール

写真:インタビュアー北村英治氏。
北村英治(きたむらえいじ)(東京都 ジャズクラリネット奏者)
 1929年(昭和4年)4月8日、東京生まれ。慶應義塾大学在学中にクラリネットを学び、慶應義塾大学を中退して1951年南部三郎クインテットでプロデビュー。1954年に自分のバンドであるキャッツハードを結成。1957年の音楽文化使節として来日したベニー・グッドマンとジャムセッションを行う。1957~60年小野満シックスブラザーズのメンバーとして活躍。1960年より北村英治クインテット・カルテットのリーダー。1968~84年テレビ朝日の「モーニングショウ」にレギュラー出演。1977年から19回モンタレージャズフェスティバルに出演。米国、欧州、豪州の大ジャズ祭で活躍。2007年に旭日小綬章を受章。今でも月に10回以上の演奏会をこなす。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌Aging&Health No.88

Aging&Health(エイジングアンドヘルス)No.88(新しいウィンドウが開きます)

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