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いつも元気、いまも現役(漫才師 内海 桂子さん)

公開日:2020年6月26日 09時00分
更新日:2020年6月26日 09時00分

10歳で蕎麦屋の奉公 昔の経験がすべて芸に生きる

 「今も月に7、8回、浅草の『東洋館』の舞台に立ちますよ。出れば看板。昔からのお客さんが多いですね。なんたって昭和13年(1938年)から舞台に立っているんですから。喋って歌って踊る。何でもやりますよ。同じ芸をやっていたのではお客さんが飽きちゃうもの。芸人だけではここまでやってこられなかったですね。若い頃は違う世界で働いていたでしょ。昔の経験がすべて芸に生きているんですよ」

 こう話すのは最高齢の漫才師、内海桂子さん。御年94歳(2016年取材当時)。しゃんとした背筋に着物を粋に着こなす。さっぱりとしたものの言い方が何とも気持ちがいい。自宅は浅草観音近くの台東区竜泉。浅草界隈の下町に住んで80年以上のちゃきちゃきの江戸っ子だ。

 「最初から芸の道に進もうと思ったわけじゃない」と話す桂子さん。小学校を3年で中退して、数え年10歳で神田の蕎麦屋の子守奉公に出た。2年近くで奉公から戻ったあと「これから生きていくために何か習っておいたほうがいい」と母に勧められ、三味線と踊りを習ったのが芸の始まり。

 「漫才小屋の楽屋の番に使われるようになったの。ゲタ揃えたり雑巾がけしたり、何でもやりました。漫才の看板で舞台に立ったのは16歳。夫婦漫才の高松屋とし松のおかみさんのお腹が大きくなったから、代わりに相方として出てくれと言われて、いきなり舞台に立つことになった。でも楽屋の番をしながらいつも舞台を見ていたから、1日練習しただけですんなりできた。おかみさんは旦那と漫才やっていて、『そうそう。はいはい』なんていつも言うの。『そこをもう少し突っ込めばいいのに』なんて思いながらずっと見ていたわけ。それで『あの娘、すごいよ』って言われてね。16歳やそこらで大人をやり込めてたの(笑)」

 とし松氏とのコンビは評判がよく、舞台のトリをつとめるほどになった。そのうちに、とし松氏との間に子どもができて、昭和16年(1941年)、19歳で男の子を出産。「おかみさんからは『亭主を取った』ってどなり込まれて大変でした。コンビはすぐに解消です」

 時は戦時中。夫を失くした母、弟、息子の3人の生活を支えるため、満州へ漫才の慰問にも行った。東京大空襲では命からがら逃げ延び、終戦を迎えた。

写真1:内海桂子氏が自身の人生を振り返って書いた絵を表す写真。
自身の人生を振り返って描いた絵。"我流"と話す絵と書だが、個展を開くほどの腕前

生きていくためできることは何でもした

 終戦直後は東京の劇場は壊滅状態で舞台に立つどころではなかった。その頃、桂子さんは新たにコンビを組んだ林家染芳氏との間に女の子を授かった。だが次第に夫は働かなくなり、夫と夫の連れ子を加えて、家族6人の生活を背負うことに。

 「生きていくためにいろんなことしましたよ。お団子つくって、吉原の女郎屋を回って売り歩きました。そのうちに町が復興してきて、お団子も売れなくなってきた。そんなとき浅草のキャバレーで"女給募集"の張り紙を見つけて、お団子の籠をぶら下げたまま店に入って、そのまま女給さんになったの」

 お店の1階はキャバレー、2階は三味線が弾けるような座敷がある日本料亭だった。「キャバレーの女給ではナンバーワンですよ。器量がいいわけじゃないけど、その場その場でできることは何でもしちゃう。1階ではアメリカ兵とダンスを踊って、2階に上がれば三味線。まさに"芸は身を助く"ですよ。『あの娘、面白いよ』って評判になって、アメリカ兵が『桂子いるか?』って名指しで店に入ってくるくらい」

 "桂子"という名は「客商売にいい」とキャバレーの女給頭が付けてくれた。"桂"は月桂冠の"桂"。桂の葉は「上に立つ」という意味でいいのだという。その後、芸人が足りなくなり、昭和24年(1949年)には「内海桂子」の名で芸の世界に復帰することになった。

写真2:内海桂子氏のサイン色紙を表す写真。描かれた夫婦達磨の頬紅は口紅を使う。
サイン色紙に夫婦達磨の絵を添えて。仕上げは口紅を使って達磨に頬紅をさす

ゴールデンコンビ「桂子・好江」の誕生

 ゴールデンコンビ「内海桂子・好江」が誕生したのは昭和25年(1950年)。桂子さん28歳、好江さん14歳のとき。

 「好江ちゃんは14歳も年下。三味線も持ったことがないし、着物もひとりで着られないような娘さんでした。『ねえさんが着物を着て三味線弾くから、相方も同じようしなければならない』となって、大変なことになっちゃったの。好江ちゃんは台本の字も読めなかった。文字と芸を一緒に仕込んだから、相当厳しかったと思いますよ。こっちもあんまり文字を知らないしね。私が小学校3年までで、好江ちゃんが2年までだから、2人合わせても5年しか学校に行ってない。それが売りだったの(笑)」

 桂子さんの厳しいしごきに耐えた好江さんの成長はめざましかった。「しばらくしたら私をやっつけようと思って、好江ちゃんのしゃべりがきつくなってきた(笑)。それで余計に漫才が盛り上がって、売れたんですよね」

 平成9年、好江さんが61歳でがんで亡くなるまで、「桂子・好江」のコンビは48年間続いた。「私が勲章をもらえたのも、ここまで続けてこられたのも好江ちゃんのおかげ。好江ちゃんは私の一生の宝ですよ」

24歳の歳の差夫婦 公私ともに二人三脚で歩む

 現在、桂子さんのマネージャーを務めるのは、24歳年下の夫の成田常也さん。出会いは昭和62年(1987年)、桂子さんが64歳で成田さんは40歳のとき。成田さんはアメリカの企業に勤めるビジネスマンだった。

 「もともと桂子・好江のファンでした。アメリカで桂子・好江の漫才の舞台をしてもらいたくて、日本に出張で来ているときに、桂子師匠に連絡を取ったんです。でも師匠が忙しいことがわかって、アメリカに来てもらうことはすぐに諦めました」と成田さん。その後、アメリカから桂子さんに毎日のようにエアメールを送るようになった。

 「1年間で300通くらい。当時は娘の家族と一緒に住んでいて、孫が『おばあちゃん、また手紙来たよー』って階段下から持ってくるの。月曜になると、土日の分が一緒になって3通も届くの(笑)」と桂子さんが当時を話す。アメリカでの出来事などを伝える内容が次第にラブレターへと変化していった。

 「手紙を出し始めたときにはファンとしてでしたけど、だんだんと恋愛感情が生まれ始めてきて。桂子師匠がアメリカには来られないなら、自分が日本に帰って師匠の側にいようと決めました。『職のないやつは私の周りをウロウロするな』と言われて(笑)。急いで職を探して日本に戻りました」

 平成3年(1991年)には台東区竜泉に家を建て、桂子さんと成田さんは一緒に暮らすようになった。しばらくは事実婚だったが、平成9年(1997年)には入籍。桂子さん77歳、成田さん53歳の歳の差夫婦の誕生は、マスコミでも大きな話題になった。その後、成田さんは3年ほどで会社を辞めて桂子さんの専属マネージャーとなり、公私ともに二人三脚で歩んでいる。

 成田さんのサラリーマン時代は桂子さんがお弁当をつくっていたというほど桂子さんは料理上手。しかし成田さんがマネージャーになってからは、家事全般、食事づくりまですべて成田さんの担当だ。

 「私は朝起きるのが遅いから1日2食。好きだ嫌いだは一切ないの。昔から芸人は出されたものに『あーだこーだ』文句は言わない。ご飯を残すと亭主に叱られるから一生懸命食べるんですよ。だから和洋食、お肉も全部食べる。酒は1日1合。亭主が1合しかくれないの。本当はもっと飲みたいよね」と桂子さん。

 すると成田さんが「酒も1合までなら体にいい。寝酒は体に悪いから禁止。寝酒したら離婚ですって言っています。でもたまに日本酒の瓶が減っていることがあるんですよね(笑)」とすかさず返す。

〽酒は一合、ご飯は二膳、

夜中に五、六回お手洗い

四の五言ってるヒマはない

百まで六年、わけがない

みなさまどうぞよろしくお願いします♪

 桂子さんが唄を披露。米寿のお祝いの時につくった唄の94歳バージョンだ。「米寿のときは、"夜中に三回お手洗い、百までたったの十二年"だったの(笑)」

写真3:内海桂子氏と夫でマネージャーの成田常也氏のツーショット写真。
夫でマネージャーの成田常也さんと。お2人の写真をお願いすると、自然に成田さんに寄りそう桂子さん

若手に伝える100年前の漫才の息遣い

 好江さんの病没後は、桂子さんはコンビを組むことなくピン芸人として舞台に立っている。1人しゃべり、都々逸、踊りで客席を盛り上げ、ときには若手芸人をつかまえて舞台に引っ張り出すことも。

 「今、若い人に100年前の漫才を教えているんです。軽口という芸の一種の『銘鳥銘木』。私が16歳で漫才師になったときにベテラン漫才師がすでにやっていた漫才。"木"に"鳥"を留めるネタで、即興のかけ合いで笑いを取る。『ほうき(木)に留めた 何鳥留めた? ちりとり(鳥)留めた』ってね。これがうまい子は成長しますね。直弟子のナイツは『ウイスキーに留めた』と返してきましたよ。その答えは『サントリー』。『ウイス木で、サン鳥』。うまいでしょ?

 若い芸人の感性をどんどん引き出しちゃう。台本などへったくれもない。それを面白がるお客さんも引き込んで会場が一体になる。桂子・好江のときには、20分の台本を即興のネタで1時間にまで延ばしたことがありますよ。臨機応変にやるのが漫才なんです」

 桂子さんはツイッターでつぶやくのが日課だが、これは2016年春のつぶやき(パソコン入力は成田さんが担当)。

 "生まれて初めてスカイツリーに登った。係員の方が誘導してくれてあっという間に三百メーターの展望台に着いたが見渡す限りビルが立ち並んでいた。ツリーは英語で木だからこれで銘鳥銘木ができますねときた。ハイできました。何のトリ止めた。いつもコンドル(混んどる)。これが今回のベストアンサー"

 するとフォロワーから「混んでいて疲れたら椅子に"スワロー"」と投稿があったという。「自分にない感性が出てくる。だから人とのかけ合いって面白い」

 『銘鳥銘木 木に鳥留めた 何の木に留めた』

 「こんなふうに調子と動きあるから、銘鳥銘木は芸として何百年と続きますよ。これを若手に伝えていけば、この息遣いはずっとつながりますね。

 芸は一期一会。毎回、心を込めて芸を披露しますよ。いつもみなさんに言うんです。機会があったら舞台に遊びにおいでって。舞台みたら元気になりますよ」

(2016年10月発行エイジングアンドヘルスNo.79より転載)

プロフィール

写真:インタビュイーの内海桂子氏
内海 桂子(うつみ けいこ)(東京都 漫才師)
 1922年(大正11年)9月12日、両親の駆け落ち先だった千葉県銚子市で生まれ、浅草で育つ。本名は安藤良子。1938年、16歳で漫才初舞台。1950年に内海桂子・好江を結成し、一世を風靡する。1982年に漫才師として初の日本芸術選奨文部大臣賞受賞。1989年に紫綬褒章受章、1995年には勲四等宝冠章受章。1997年、好江病没後はピン芸人となり、現在も浅草の東洋館などの舞台に立ち活躍中。1999年、マネージャーの成田常也さんと結婚。漫才協会名誉会長。ウッチャンナンチャンやナイツなどの師匠としても有名。
 2010年からツイッターで自らの言葉でツイートを1日1回行っている。フォロワーは現在14万7千人を超す。(ツイッターアカウント:@utumikeiko)
 著書に『悩むヒマありゃ、動きなさいよ!』(牧野出版)、『師匠!』(集英社)、『機嫌よく暮らす―桂子師匠90歳、元気の秘密』(マキノ出版)など多数。

転載元

公益財団法人長寿科学振興財団発行 機関誌Aging&Health No.79

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