健康長寿ネット

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第22回 妻の決断

公開日:2019年7月 5日 09:00
更新日:2019年7月 5日 09:00

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


我が家では毎週一度お掃除の人に来てもらっている。
週に1回、日曜日に2時間である。
彼女が来る日の妻は忙しい。
掃除の女性が仕事をしやすいように準備をするためだ。
それでは「何のために来てもらっているのかわからない」と私は思うのだが、妻の生まれつきの性分である。

掃除の彼女が来ると必ず私の部屋のテレビがつかなくなる。
コンセントとテレビとの間の配線のどこかに接触の不都合な部分があるらしくて彼女がそこへ触れるのだ。
テレビの裏に回ってあれこれいじると、どこがどう変わったか分からぬままに直ってしまう。
テレビの裏側は配線が絡まって混雑している。

医者が外来患者を診ているのはテレビの画面だけを見ているようなもので、背後の絡まっている配線のような家族関係を窺い知ることは少ない。

その患者の背後関係が明らかになるときがある。
患者の危機の時である。

91歳の外科医であるFさんは、軽い糖尿病である。5年前に外科の開業は廃業して私のクリニックへ月に1回通っている。私の所では血圧もコレステロールも正常であった。
毎週ゴルフへ行っている。私が妻のことを話題にすると嬉しそうに笑みを浮かべた。妻と一緒にゴルフにいくと言っていた。

糖尿病が悪化したので腹部のCTを撮ると腎臓がんが発見された。
大学病院へ紹介状を書いて持たせると紹介状の返事を持って妻がついてきた。夫妻に子供はいない。

妻は80代の後半であると思われたが頭脳は明晰であった。
私には見えなかったFさんの裏側にある配線をきちんと整理して教えてくれた。
彼女が言うにはFさんは、私のところとは別の医院へも長い間通院しており高脂血症や高血圧の薬を処方されていたということだった。
Fさんはこの頃物忘れが多くなり、日常生活もおぼつかないというのだった。
大学病院の説明では「腎臓がんは手術の適応であり、根治は可能であるが、どうします?」と言われたそうだ。

手術のために入院すると認知症は悪化するだろう。
寿命を伸ばすことはFさんを利するだろうか?
妻は難題を抱えてしまった。

夫がいなくなれば二人だけの生活はもう終わりになる。
Fさんは不安そうに妻の横顔を眺めていた。

二人を前にして私が無言でいると、
「手術はしません。もう十分に生きたので命に未練はありません」と妻がいった。
それはまるで自分のことを言ってるように聞こえた。
彼女は夫との穏やかな日常を送りながら最後まで見送り、夫のなき後の自分の命の行く末迄を見通して決断したのであった。

図:老いをみるまなざし_第22回妻の決断_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数

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