第92回 幻想の丘ーあの丘を登ればー
公開日:2025年5月 9日 08時20分
更新日:2025年5月 9日 08時20分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
名古屋市の郊外にある我が家から大学まで車で通勤している。国道を過ぎ田舎道を走って大学まで約50分である。
市内を出て20分走った所に丘が見える。
大学へ行くにはその丘を正面に見て交差点を左に回る。
車から丘を眺めると雑木林の間に春には山桜が、秋には無数の柿がなっているのが見える。
不思議な村がありそうに思え、道をまっすぐに進み丘を登ってみたい誘惑にかられる時もあった。
丘の上の空は青く浮雲が漂っているときなどには、丘の畑には麦畑があるに違いないと思う。
空ではひばりがさえずり、小川には冷たい水が流れてドジョウやモロコなどの魚が泳ぎ、水すましが水面を滑るように走り、田んぼにはオタマジャクシがいるであろう。
秋になると赤とんぼが空を埋めるであろう。
懐かしい世界があるような気がして訪ねてみたいと思っていたが、行くことはなかった。
昨日の悔いを撃ち殺すようにして生きてきた。
何かに追い立てられるように過ごしてきた。
あの丘を登れば早春に麦を踏み、梅雨に田植えをして秋になると稲刈りをする。
大地につながった生活を送っている自分に出会うかも知れない。
信号を真っすぐに進んだ上り坂は私の過去へ侵入する入り口のように思えるのだった。
新型コロナが猛威を振るっていた3月だった。
思いきって交差点を直進して丘を登った。
狭い坂道を登り切ると異界への入り口でもあるように鳥居があった。
道幅は狭く、人の気配はなかった。
20軒ほどある人家の間をゆっくりと車で回ると田園地帯に出た。
どこかで見たような懐かしい家の横で私は車を停めた。
家の庭先にはフキノトウが顔を出し、水仙が黄色の花を咲かせていた。
障子に影絵のように人影が写っているのが見えた。
人影はモンペをはいて赤ん坊をおぶった若い母親らしかった。
背中を揺すって赤ん坊をあやしながら台所にたっていた。
戦争に夫を送り出した後の私の母の姿のようであった。
新型コロナが猛威を振るっていた3月に、坂の前の交差点で丘を眺めていたときに私を襲った幻想であった。

(イラスト:茶畑和也)
著者

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など