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第76回 70年ぶりの電話 ―消えようとしている故郷―

公開日:2024年1月12日 09時00分
更新日:2024年1月 9日 09時35分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


8月の旧盆に田舎の実家へ帰省して、名古屋へ帰ると気分が沈んだ。「お盆後うつ病」と自分で呼んでいた。
「田舎の長男でありながら田舎を捨てて帰ってこない。そんな親不孝な者はない」と幼いころから聞かされて育った。
私は、故郷へ帰らない後ろめたさから自責の念に駆られるのであった。
悪いことを犯しているような気分が私の心に住み着いて離れなかった。
母が死に父が死んでからはお盆に帰ることはなくなった。それでも長年に渡って沁みついた夏の終わりの憂鬱は襲ってくる。

今年の8月の終わりに、名古屋で同郷の集まりで講演をする機会があった。
聴衆は故郷を出て名古屋で暮らしていて田舎へ帰らなかった人たちであった。
講演の後で懇親会があった。
私と同じ地域の出身者二人が傍に来て話をした。
一人は80歳で私の生まれ育った隣の村の出身で私と同じ小学校を卒業していた。私たちの通った小学校は伊那谷を流れる天竜川の支流の傍らにあり、一学年に一学級しかない小さな学校であった。
彼は校歌を覚えていた。彼が歌うと私も思い出した。二人で「伊那北小学校」の校歌をうたった。
今では小学校はなくなってしまったが校歌は私たちに残っていた。私たちが忘れると消えてしまうだろうか。
もう一人は70代の半ばで、毎月一度は生まれ故郷の村に帰り、隣近所との付き合いを昔のように続けている人だった。
名古屋と故郷での二重生活をしているという。
村の会合にも出ているそうだ。
しかし最近ではそうした生活は限界にきていると言っていた。
田畑の耕作を頼んでいた近所の人も年老いてきているらしい。彼よりも年齢が上だという。
毎月の帰郷に疲れてきて「そろそろ終わりにしたい」と言い、溜息をついた。
「私たちの心にあった故郷」は消えようとしている。

私は最近本を出版した。
故郷に住む小学校時代の同級生であったK君から電話がかかってきた。
S君に頼んで著書を同級生たちに配ってもらったが、そのお礼の電話であった。
K君は「S君が電話をしろって言うもんで」電話をかけてきたのだ。
私が電話に出ると
「アキヒサクンかい」と言うので「そうだ」と答えると「声が変わったじゃん」と、言った。
声は変わるはずである。小学校卒業以来の70年ぶりであったのだ。

小学校の校歌を唄う同窓生

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など

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