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第51回 誤診―意識が同時に供給できるのは一つの思考と一つの記憶だけである―

公開日:2021年12月 3日 09時00分
更新日:2021年12月21日 13時41分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


女子学生が「2日前に急に脈拍が早くなって気が遠くなりそうだった」と言って私の外来を受診した。
半年で体重が5㎏も減ったという。
「汗をかきやすくないか?」と訊くと「そうなんです、もの凄く汗が出ます」と言い「疲れやすくないか?」と訊くと「そのとおりです」と答えた。
触診すると甲状腺腫があった。
私は「甲状腺機能亢進症が疑われる」と言って「3日後には検査の結果が出るから受診しなさい」と伝えた。
次の日に結果が出たが、私の予測に反して甲状腺機能は正常であった。
私の診断は間違っていたのであった。
私は彼女のことが心配になった。きっとネットで「甲状腺機能亢進症」を調べているに違いないと思ったからだ。
そこに書かれている有害事象に恐れおののいている可能性があった。
静岡県の出身で一人暮らしであると言っていたから両親にも告げているであろうと思った。
だから私の誤診を早く伝えて安心させてやらなければならないと焦った。
カルテに記載されてあった携帯の番号に電話をかけたが電話に出なかった。
時間をおいて何回もかけ直してみたが、出ることはなかった。
そして3日後の予定の来院日にもこなかった。
万が一に自殺でもーー。

それから私の心はそのことに占められてしまった。
私の脳の底には深海に溜まっているがれきのように様々な悩みが溜まっている筈であったが意識に上るのは「そのこと」だけであった。
私は今まで人間は同時に複数の意識を共有できると漠然と思っていた。
しかし思い出すのはいつも彼女のことばかりであった。

19世紀のドイツの哲学者グスタフ・テオドール・フェヒナーは「普通の生活では意識が同時に供給できるのは一つの思考と一つの記憶だけである。」と書いている。
そして「心の中にあるものすべてに同時にアクセスすることはできない。何かを思い出したいなら光の弱いランタンを掲げて記憶を探らねばならない。そのランタンは細い光しか放たず、それ以外の部分は暗闇のままだ。」と述べている。

人は複数の記憶を同時に思い出すことはなく、思い出すのは一つだけだというのだ。
至極当たり前のことを今まで意識することなく生きてきたのが不思議であった。
記憶に関する脳は混ぜて思い出すと言う機能は持っていないのだ。ご飯に味噌汁をかけると単独の時とは別の味になるのだが記憶はそのようには混じらない。
不倫をしている男が二人の女に攻められたときの言い訳に「君といる時は君のことだけを考えている」と言うそうである。
私には経験がないので分からないが、意識は愛人と女房をごちゃ混ぜにはできないのだ。

2週間後に女子学生が同僚の医者の外来に現れた。
「問題なかった」と告げられた彼女は「あーそうですか」と何事もなかったように受け止めたそうだ。
彼女は私が思ったほどには心配していなかったのだった。
最近の女子学生は他人からの携帯電話には出ないらしい。

図:老いをみるまなざし_第51回誤診―意識が同時に供給できるのは一つの思考と一つの記憶だけである―_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など

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