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第72回 潜在記憶ー脳内の世界と現実の世界ー

公開日:2023年9月 8日 09時00分
更新日:2023年9月 8日 09時00分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


自宅の机のパソコンに繋げてあったUSBがないのを知ったのは金曜日の夕方だった。
室外へ持ち出してどこかへ忘れてきたようだ。
USBには過去の文章や草稿中の原稿、年賀状などの住所録、思いつきを書いたメモのようなものまで私の全てが収まっている。
未来の予定も書きこんである。
小さなUSBに多くの情報を詰めて長い紐を付けてある。
USBの喪失は私の過去の記録を消失させて未来の予定を不明にする。この頃の私の記憶は頼りないのだが、その記憶だけが頼りになる。
私の脳の中に存在する"USBの所在地"に思いを巡らせた。
私が自宅の部屋からUSBを持ち出す場所は大学のクリニックの診察室か、研究室であるが、診察室では滅多に使わないし、忘れ物は看護師がチェックしてくれている。
だから忘れてきたのは研究室であると確信していた。
しかし月曜日に大学の研究室へ出かけてみるといつもの見慣れた場所にはストラップに繋がれたUSBはなかった。

帰宅して改めて自宅を探しても次の日の診察室でも見つからなかった。
ふと出てくるだろうと楽観していたが、それから数日経っても出てこなかった。

記憶を構成する要素は経験の貯蔵と想起と位置づけである。
心理学者によるとほとんどの人が脳は自分の記憶のすべてを完全に貯蔵していると思っているそうである。私も過去の全ての記憶が貯蔵されていると信じている。
思い出せないのは「貯蔵された経験にアクセスできない」からである。

USBは隅々まで探し回れば脳のどこかに必ず存在するはずであり、思い出せないのは記憶の位置づけができないからであると思っていた。
しかし悉く裏切られた。
脳の中では"そこにある"のだが、外界のその場所にはUSBは存在しなかったのだ。
私の脳内の世界と現実の世界の乖離は加齢に伴い拡大しているようだった。
2週間経ってもストラップに繋がったUSBは私の目の前に現れることはなかった。
「あそこに在る」という脳の中での確信は悉く裏切られた。

1か月過ぎたときに自宅のソファの座布団の下に白いストラップに繋がったUSBが出てきた。
想像もしなかった場所での発見は、私の記憶が脆弱になったことを証明するようなものだった。
USBはこの世から消えてはいなかったのに、私の脳からは消えてしまっていたのだ。
私の脳は全ての経験を蓄えておくほどには若くはないようだった。

私はここで、この文章を終えようと思った。
そしてパソコンを閉じてしばらくすると私の脳に"そのとき"の情景が浮かんできた。
私は、紛失が判明する2日前の水曜日の夕方、書斎のパソコンからUSBを外して2階のパソコンへ差し替えるつもりで持ち出し、途中で居間のソファに座った。その時に置き忘れたと思い出した。記憶は残っていたのだ。
これからも、私の脳には過去の全ての記憶が貯蔵されていると信じていたい。

図:老いをみるまなざし_第72回_潜在記憶ー脳内の世界と現実の世界ー_ソファの座布団の下から探していたUSBが見つかった様子を表わす図。

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など

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