第105回 私の幼年時代
公開日:2026年6月12日 08時30分
更新日:2026年6月12日 08時30分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
私は昭和18年に信州の農村に生まれた。
グーグルマップを眺めると、私が生まれて育った地域は山また山の森林地帯であることがわかる。
政府は戦争へ駆り出す予備軍を多くするために子どもを5人以上産めと国民を脅迫していたので、山村でも子供に溢れていた。
昭和20年の終戦によって軍国主義が崩壊すると、お国のために生んだ子供たちが不要になった。
戦後の一時期は日本の歴史上、最も子どもをおろそかに扱った時代であったと思われる。
小学校へ上がる前の、現在の保育園児に当たる世代は野放し状態であった。
ひらがなを書ける子供はおらず、自分の名前すら書けなかった。
子どもたちはつぎはぎのある服を着せられ冬になると水洟(みずばな)を垂らしていた。
昭和20年代の日本の農村は歴史の中で最も賑やかな時代であった。貧困に苦しむ都会に比べて農村は賑わっていた。
現代では田んぼや畑に人を見ることが無いが、その当時には常に人がいた。
農地改革が行われて地主と呼ばれた階層が消滅した時期だった。
食糧難に喘ぐ日本に碌(ろく)な食材はなく魚を食べるのは大みそかのみといった家庭もあった。私は牛肉を食べたことはなかった。
庭には食料不足を補足するために柿が植えられ、栗の木があり、ぶどう棚があった。
ヤギを飼って乳を搾り、ニワトリに卵を産ませた。
村に街灯はないので夕暮れとともに暗闇となった。夕暮れが訪れると家々の煙突に煙が上った。
テレビは普及しておらず、ラジオが唯一の娯楽であった。
子供はガキと呼ばれていた。
小学校入学までの統率の取れない集団は盗賊集団の様相を呈していた。
集団になると子供でもとんでもない悪事をはたらくのだった。
スイカ泥棒、柿泥棒をはたらくのは子供たちであった。
ほとんどの子供が慢性副鼻腔炎に罹患しており、青い鼻汁を垂れ流していた。新聞紙で鼻汁を拭くので顔面が新聞のインクで黒くなっていた。
青洟(あおばな)を垂れ流して盗みを繰り返す子供が可愛いはずがなく、大人たちは子供を「こそ泥棒」扱いしていた。
子供たちの悪事を取り締まるために、巡査が見回りをしていた。
何故かお寺の坊主も村を巡回していた。
私の属した集団ではガキ大将が絶対的な権力を握っており、小学校に入ると私は「お前は勉強ができる」と言っていじめられた。
勉強ができることが恥ずかしいことであったのは日本の歴史でもこの時代だけのことであっただろう。
現代のアメリカ大統領であるトランプは当時のガキ大将に似ている。

(イラスト:茶畑和也)
著者

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」「老いを見るまなざし―老いは神の呪いか恩寵か」(いずれも風媒社)など