健康長寿ネット

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第6回 床屋の女房

公開日:2018年2月21日 17時33分
更新日:2023年8月21日 13時05分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


正月の気分も消えた1月の下旬の水曜日の午前11時に、私は行きつけの床屋へ行った。
理髪用の椅子には乾いた洗濯物が無造作に置いてあった。床屋の亭主は流し台に向かって歯を磨いていた。いつもは女房がいたのだがその日は亭主だけであった。彼は歯磨きを終えてうがいをしてから洗濯物を片付けて私の散髪を始めた。
亭主は右手にカミソリを持ち左手に石鹸の泡を抱えて私の顎をそっていた。
以前は顔を剃るのは女房の役割であった。女房のふくよかな感触に心地よく眠ったものだった。亭主では唯、寝ている間にひげが剃られていくだけだ。

けたたましい音がして電話が鳴った。電話の音を「大」にしてあるようだった。
亭主は左手の石鹸の泡をテイッシュで拭いて右手にカミソリを持ったまま受話器を取って電話機に怒鳴った。「今ちょっと忙しいんだけど、何?」受話器を戻そうとしながら「どうしたの?」と聞き返した。「いいよ。いつ?」私はそのやりとりから予約をしてきた客かなと思った。
しかし「分かった,わかった。誰と?」というのを聞いて、どうやら麻雀かゴルフのお誘いらしいなと思った。
彼は遊び人である。若い頃から麻雀、ゴルフ、釣りを楽しんできた。それにヨットまで持っている。
私は若い頃は勉強ばかりしていた。30歳から40歳代にかけてこの床屋のように過ごした人間と、私のように暇さえあれば本を読んだり論文を書いたりして脳を鍛えている人間はそのうち老人になったら何か大きな差ができるだろうと思っていた。
そして二人とも老人になったが、何も変わらなかった。
私も遊びたいのだが、私はゴルフはできない、麻雀の仲間もいない、ヨットなど乗ったことはない。居酒屋もいかない。
私は相変わらず体を使って遊ぶということができないでいる。今となっては、ひたすらに床屋が羨ましい。
しかし「生まれ変わったら床屋になろう」とは思わない。
床屋は受話器を耳から離して私の方を振り向いて「今、仕事中なんだけど」と向こうの人に言った。
「後でまた」と言って仕事に戻るだろうと、私は顎を上げる準備体制に入った。
床屋は還暦を過ぎているのに金髪である。頭のてっぺんは髪の毛が寝ぐせのままである。髪をもじゃもじゃにするのが今風の若者のスタイルなのだ。「このアタマで床屋かよ?!」と私はいつも思う。
「老人が若い者の真似をすることほど見苦しいことはない」と、ヘルマン・ヘッセは言っているが、哲学的な話は彼には似合わないので私はそのことは黙っている。
彼は一旦私の方に戻るかに見えたが「それで、どこで?」と再び電話に捕まってしまった。
「え。俺が?」と彼は受話器を握りなおした。「俺がとるの?」。
彼は受話器にくっついてしまった。
「サルーーー。あーサルカントリーか。分かった。かみさんは今いないんだわ」
私は彼の電話から一部始終を理解しようとしていた。
電話をかけてきた相手は市役所に勤めていて今は定年後で公団住宅に住んでいる村松さんであるらしい。いつもの仲間とゴルフをしたいのだが2月の18日がいい。ついては猿投カントリークラブを予約してくれないか。いつも床屋の女房が予約をするのでまた女房に頼んでもらいたい、ということだと、私は理解した。
「かみさんはねー、居酒屋を始めたんだわ、だから俺がゴルフクラブへ電話をするわ」
と彼が言った。
床屋の女房は居酒屋を始めたのである。60を過ぎてからキャリア・アップをはかったのだ。夜の飲み屋で忙しいらしく昼間に床屋に現れることはめったになくなった。
女房の愚痴を彼は村松さんに始めた。
「カミさんはねー、この頃ゼンゼン出てこんのだわ!」
タオルで湿らせた私の顔は乾いてきた。
私は電話の話を聴きながら再び寝入ってしまった。

図:第6回床屋の女房の挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943 年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007 年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数

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