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第4回 最も古い記憶

公開日:2017年12月20日 13時20分
更新日:2023年8月21日 13時06分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


 学生たちに一番古い記憶は何歳の時?と聞くとほとんどの学生が4歳以降に手を挙げた。
 記憶はいくつかの謎めいた法則に従っている。どういうわけか3、4歳以前に起こったことは記憶にはほとんど残っていない。
 3、4歳以前の記憶がないのは、脳に記憶を貯蔵する能力が不足していたからだと以前は思われていたが、幼少時の記憶は積極的に喪失しているというのが現在の学説である。
 記憶は前に向かっているので、脳は役に立たない記憶は捨て去るのだそうだ。
 その学説に従うと、私の記憶は記憶喪失が途絶えた時から始まることになる。

 私の最も古い記憶は4歳前後の冬の一日である。

 最近の私は昼間でもうつらうつらと居眠りをすることが多くなったが、幼いころは夜になっても眠れなかった。
 「夜」は怖かった。
 昭和20年ごろの信州の田舎では若い男たちは戦争に駆り出されていた。私の父親も出征して帰っていなかった。
 私の夜への恐れはその頃の村に「村の夜」を守る頼もしい男たちがいなかったためかもしれない。
 私と私の若い母親を守ってくれていたのは63歳の祖父だけであった。

 冬はいつも雪が舞っていた。
 夜、母と祖父が眠ってしまって一人眠れずに残されると、深い闇から「しんしん」という音が聞こえてきた。
 死の世界から発せられてくるような寂しい音だった。
 松の木に雪が積り、耐えきれなくなった枝から折り重なって落ちる音は、闇夜を裂いて吠える口裂けお化けの絶叫に似ていた。
 私は地球儀に乗って昼間だけの世界を回りたかった。
 ひたすら朝が来ることを願った。

 朝がきて、庭に出れば一面の雪景色である。しみいるような寒さであった。囲炉裏の横にちゃぶ台があり、母が味噌蔵から氷のついたオハズケ(野沢菜漬けのことをそういった)を出してきて、お皿に盛って、大根の味噌汁をかけてご飯を食べた。
 お釜から上がるごはんの湯気、お椀の底に残る味噌の固まり。
 父の帰らぬ子供を囲んで、精一杯の家族の団らんであった。

 朝食を食べてから祖父は私のためにそりを作り始めた。
 雪の村では子供たちの熱気だけが救いだった。
 里山に出かけて斜面でそりを滑らせるほど楽しいことはなかった。母の作ってくれた毛糸の手袋をして山の坂道に出かけるのだ。
 祖父はアカシヤの木の皮を剥いで、先をとがらせて、2本の木の間に板を打ち付けた。
 軒下で孫を横に置いて祖父はそりを作っていた。

 伊那谷は南アルプスと中央アルプスの間にあり真ん中を天竜川が流れている。
 冬は駒ヶ岳の頂上から里山の林まで雪に覆われてしまう。
 粉雪の舞う天竜川沿いの田圃のあぜ道に影絵のように人影が表れた。次第に近づいてくると力強く雪を踏んで歩く軍服姿の青年であった。
 隣の家には私の父と同年の若者がいた。その青年も出征して未だに帰還していなかった。
 シベリヤに抑留された兵士たちは何の前触れもなく田舎の実家へ戻ってきた。
 隣の家の長男がシベリヤから引き揚げてきたのだった。

 それを横目に祖父は黙ってそりを作っていた。
 未だ帰らぬ我が家の長男の子供のために祖父はそりを作り続けた。
 山の上から一気に滑るようにアカシヤの木をやすりで磨いた。
 孫が山の頂上から片手をあげて、歓声を上げて滑り降りるように、先っぽにかじ取りのひもを取り付けた。

 そして私の若かった父親は永遠に帰ってくることはなかった。

図:第4回 最も古い記憶

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943 年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007 年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数

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