健康長寿ネット

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第61回 お坊さんのいない法事

公開日:2022年10月 7日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時48分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


大学の帰路、国道の信号の手前に菓子屋がある。
畑が続く田舎道の傍らに大きな看板が立っている。
私の故郷のお寺さんの看板に似ている。
いつかその店に寄って饅頭を買ってみたいと思いながら15年経った。
柔らかくて、ほんのりとした甘みのある有難味のある饅頭を思っていた。

今年の8月の午後、夕立が来そうで来ない暑い日だった。
店の前を通り過ぎようとした時に信号が赤になった。
私はとっさに思い立って菓子屋の駐車場に車を入れた。
店に入ると品の良い和服姿の女性店員と若い女性店員2人が迎えてくれた。
客はおらず手持無沙汰な3人は私を見つめた。
自分で食べるために饅頭を買うのは生まれて初めてであった。
様々な饅頭が並んでいるケースを眺めると私は思い付きで店に入ったことを後悔した。
どの饅頭を見ても「こいつを食べたい!!」という欲望にかられることはなかったのだ。
多種多彩な饅頭を前にして私は途方にくれた。
「高い物はいい物だ」という価値観しか持たない私は陳列してあった中で一番高価な折詰を選んだ。5,700円であった。
和服の女性店員にお願いすると、2人の若い店員に命じて棚の後ろで箱詰めを始めた。私の求めた物は5種類の饅頭を詰めたものであった。
私は陳列してあった箱をそのままもって帰るものと思っていたが、彼女らは改めて5種類の饅頭を別の箱に詰め始めた。
若い店員たちの慣れない作業は時間がかかりそうであった。

外は急に暗くなって雷が鳴ると雨が降ってきたようだった。
私は日ごろから家に送られてくるお中元の包を「包装紙や空き箱は余分な物」であると思っていたので、和服の女性店員に「家で使うので包まなくていいから」と言った。
彼女は一瞬困惑した表情をしたがすぐに「わかりました」と店員に折詰をやめるように告げた。
そして「300円値引きさせてもらいます」と言った。
私が値下げを要求したと勘違いしたようだった。
私は「包装紙に包まなくてもいい」が、「箱詰めはそのままに」というつもりだったが、面倒くさいのでそのまま頷いた。
若い店員は箱に詰めた饅頭を改めて紙袋に入れ直した。
饅頭の入った3つの紙袋を手渡されて外に出ると土砂降りの雨になっていた。
濡れて破れそうになった紙袋を運転席の脇に置き、家に帰った。

家に帰り濡れた紙袋から饅頭を出して食べてみたが、何となく有難さが足りなかった。
深みや奥ゆかしさに欠けていた。
饅頭の味には「なんだかわからん有難さ」も含まれているものだと知った。
箱や包装紙も味を形成する要素なのだ。
饅頭の味は「お坊さんのいない法事」のように味気のないものだった。

図:老いをみるまなざし_第61回_お坊さんのいない法事_土砂降りの雨の中、饅頭の入った3つの紙袋を持って車に向かう様子を表わす図。

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「老いという贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など

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