健康長寿ネット

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第9回 妻と娘に囲まれて―幸せな老人―

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


講演会があった。
私は基調講演で「老人の幸福について」しゃべった。
講演が終わると、司会をしていた40歳代の女性が、私に質問した。「両親との3人暮らしなのですが、父親が定年退職してから毎日家でゴロゴロしていて困っています。どうしたらいいでしょうか」
私はこの頃、思いついた言葉をそのまま口に出してしまうことが多くなった。その美人司会者に言ってしまった。
「あなたのお父さんは妻と娘に一日中監視されているんですね。幸福そうに見えるんですが、そういう老人が一番つらい思いをしてるんですよ」
予期せぬ答えに司会者は、困った。そして「その通りです」と言って泣きだしそうな顔をしてうつむいてしまった。
私も困ったが、その場を和らげるにふさわしい言葉を見つけ出せずに更に困った。
気まずい沈黙が生まれた。

老人の外形的なケアの形態として健康な妻と独身の娘に介護してもらうのは理想的にみえる。
女の子供を持たない私は、老後を家族に頼るという幻想を抱くことを許されずに生きてきた。
しかし娘を子供に持つ父親は私の想像とは異なった体験をしているようである。

私のクリニックへ通ってくる糖尿病の患者に70代の3人の男たちがいる。3人に共通しているのは定年まではエリートサラリーマンであったことである。
妻は毎日が楽しくてしょうがない人たちである。娘たちはそれぞれに一人娘でキャリアを積んだ40歳代で独身である。
女たちに囲まれた夫たちは家事をしたことがない。「掃除や洗濯など男のやることではない」と誰に教わったわけでもないのに、勝手にそう思って暮らしてきた。ご飯を電気釜で炊くことすらできないので、生きるに必要な栄養素は妻か娘がいないと途切れてしまう。

彼らの娘たちが保育園に通っていた頃の保育目標には「自分のことは自分でできる子」と書いてあった筈だ。
娘はそうなったが、父親は「自分のことを自分でできない老人」になってしまった。
妻と娘が長い時間をかけて「自分のことを自分でできない男」に育ててきたのである。

そして定年になった。
「自分のことを自分でできない男」が毎日家に居るようになった。
妻の一人が私のクリニックへ来た時に言った。
「お昼だけでもどこかへ行って欲しいわ。朝から晩まで家の中に居られたらうっとうしいの。なんでもいいから外で食べていらっしゃいって言うんですけどね。私の作ったものが美味しいなんて言われると気が狂いそう。」

妻たちは男たちが抗いようのない道徳感の持ち主である。亭主を責め立てる。
「毎日テレビばかりみて生活するのはよくないでしょ。趣味を持ちなさいよ。間食はやめなさい。お酒なんてもってのほか。背中なんか掻くな!!っていうの。」男たちは老人性皮膚乾燥症で、いつも全身が痒いのだ。

彼女たちは自分のことが心配なのである。
お父さんの糖尿病が悪化して入院ともなれば、娘は父のために時間を割かなければならなくなる。夫が動けなくなったら妻はプールへ行けないのである。

二人に連れられて私の外来にくるお父さんは、弱っている。
背中を掻きながらぶつぶつと独り言を言う。
「酒なんか飲まんですよ。ほんのちょっとしか。こそこそと甘いものを食べるなんて情けないですわ。それも妻に止められて娘にも監視されて、たまらんですわ。」
診察室を出がけに躓きそうになった夫に妻が言った。
「そら! シッカリ前を見て歩くのよ。よたよたするんじゃないの!!。」

私は心の中でエールを送った。
元気を出しな。お父さん。そして自分のことは自分でできるようになりな!

図:老いをみるまなざし_第9回妻と娘に囲まれて_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数

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