健康長寿ネット

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第40回 一過性全健忘

公開日:2021年1月 8日 09時00分
更新日:2023年8月21日 12時52分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


最近ショーン・コネリーが死んだそうだ。
彼は老いを格好良く見せてくれていた。芝さんは彼を見ると年を取るのも悪くないなといつも思っていた。
「ショーン・コネリーが死んだね」と75歳の芝さんが言うと「本当?」と2歳下の妻が聞き返した。
中華料理店に向かう車の中であった。
「格好良かったね」「今でも格好いいわ」「最近見かけなかったけどね」「ショーン・コネリーが死んだの?」「さっき言っただろ」「そうだったっけ?」
妻はその後も「ショーン・コネリーは死んだの?」と何回も聞き返した。
日曜日の夕方のことであった。

妻の異変は車に乗る前からあった。
その日の午後1時。芝さんが書斎にいると居間にいた妻の声がした。
「ここにいつからリンゴの箱があったの?」「前からあったじゃないか」青森から送られてきたリンゴの箱が玄関に置いてあった。
「私は知らないわ」「前からここにあったよ」「そんなことないわ」彼女が納得しないので押し問答が続いた。
それどころかその隣に置いてあったせんべいの段ボール箱を指さして「これ何?」と聞いた。「君が取り寄せたんじゃないか」「私は知らないわ」
芝さんは妻の「ど忘れ」であろうと聞き流して書斎へ戻ろうと思ったが、その前に今夜の予定を確かめておこうと思った。
「今夜は5時だったよね」「なにそれ?」中華料理屋店へ行く約束を交わしたのは妻と息子の昨夜の電話であった。
「そんなこと私は知らないわ」「5時からって約束したのは君ではないか!!」芝さんはいらだって声を上げながらいつもと違う妻の異変に気がついた。
彼女には忘れてしまったという自覚がなかった。

その後二人は息子一家との中華料理店での会食を済ませて家に帰った。
芝さんは居間に座ってその日のことを妻に尋ねた。
「今日何をしたか言ってみて」という問いかけに妻は何も思い出すことができずに遠くを見るようにして言った。「あなたが言ってみて」
その後何回聞いても答えは「あなたが先に言って」であった。
中華料理店での経験は共有されていなかった。

妻はその日何をしていたのか全く知らなかった。
そして現在しゃべっていることは煙のように消えていった。
そこに座っているのはいつもの妻ではなかった。
それは芝夫妻にとって不思議な体験であった。
彼女はその日の午後、一過性全健忘に陥っていたのだ。

健忘症は記憶の武装強盗であると言われているがまさに妻は強盗に記憶を奪われてしまっていた。
彼女の場合、日曜日の午後1時以降の経験が自分の過去になることはなく、進行中の会話が貯蔵されることはなかった。
記憶が上書きされないのである。

芝さんは過去を共有できない妻を前にして共鳴しないピアノの音を聞くような気がした。
妻も見知らぬ人には親しみがわかないのと同じくらい自分自身になじめない様子であった。
会話に必要な道具、すなわち言葉とそれを理解する力は無傷なままなのに、妻の言葉からは感情と深みが消えてしまっていた。

次の日の朝、妻は「昨日の記憶を失っている」ことに気がついた。
そして一過性全健忘であることを知ったのである。
芝さんは妻と同じ世界に生きている幸せを感じることができるようになった。
「ショーン・コネリーも最後は認知症になったそうだよ」「そうらしいわね、新聞で見たわ」「格好良かった彼でも認知症になるなんて人間は悲しいね」「そんなことないわ、いくら認知症でもコネリーは格好良かったわ!!」次の日の会話である。
妻が現実に戻ってきた。

この病気は一過性で必ず回復するのが特徴で再発することはない。

図:老いをみるまなざし_第40回一過性全健忘_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」(いずれも風媒社)など

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