健康長寿ネット

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第71回 「今日じゃなかった?」

公開日:2023年8月 4日 09時00分
更新日:2023年8月21日 11時43分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


大学のクリニックでの外来診療が終わったのが13時であった。
近くのコンビニでおにぎりを買って研究室で食べて、その後床屋へ行くのが、その日の予定であった。
診療所から研究室まで1,500歩であるが、大学の傍にあるコンビニへ寄ると2,000歩になる。
私は万歩計を付けていて毎日5,000歩を目標にしている。
私が付き合ってきた老人たちは歩行速度が遅くなると死んでいった。だから私は大股で早く歩くようにしている。
しかし、私がいくら頑張っても普通に歩いている学生に追い抜かれてしまう。
コンビニで買ったおにぎりを抱えて研究室に着くと「8月中に研究室を引っ越せ」という大学からのお達しがあったことを思いだした。
私は引っ越しの準備をしなければならないのだった。
長年住んでいた研究室であるが荷物は少ない。
10年前に食道癌が発見されたのだが、既に末期で手術はできなかったので、放射線と化学療法で命を繋ぐしか方法がなかった。
死を覚悟したその時にほとんどの本を捨てた。
だからリモートの会議で研究室の背景が写されると私の背後にある本棚には本がない。
しかし幸いなことに私の癌は奇跡のように消えた。
それから数年間は3か月ごとに検査をして再発のないことを確認していた。
検査が終わると、とりあえず3か月の猶予を得たと思った。
与えられた3か月が近づくとくと不安に沈み、検査が終わると新しい命が与えられたような気がした。
その繰り返しが5年ほど続き、猶予期間は半年になり、最近まで続いてきたが9年経った昨年からは1年になった。
今では1年の大半は癌のことを忘れて過ごしている。
しかし検査の機会が近づいてくると不安になるのは以前と変わりがない。
その日は木曜日で、次週に検査を受けることになっていた。
検査の日が近づいて憂鬱になっていた。
さらに引っ越しについて頭をめぐらせているうちに床屋へ行くのを忘れてしまっていた。
15時過ぎに研究室を出ていつものように家路についている途中で、夕食の献立を考えているときに床屋から「イグチサン!」と電話が掛かってきた。
「今日じゃなかった?!」
私は慌てた。すっかり床屋の件を忘れていた。
それが6月末の木曜日の15時15分であった。

川の畔の床屋へ通い始めて30年になる。
数年前に床屋のお兄ちゃんと喧嘩をして床屋を変えたことがあったが、その店に馴染めず、何事もなかったような顔をして戻ってきた経緯がある。
鏡の中では床屋の「お兄ちゃん」だと思っていたが、最近では面と向かい真正面から眺めてみるとすっかりおじいさんになっている。何しろ70歳に近い。
近くの団地に雀のように群がっていた子供たちの声はない。
近所にクリーニング屋、てんぷら屋、うどん屋、食堂、電機屋があったが全部なくなった。
つるしてあるカレンダーの日づけの下に予約を書き付けて済ませるのは変わりがない。
そして私がしょっちゅう予約を忘れるのも変わりがない。

図:老いをみるまなざし_第71回_今日じゃなかった_床屋に行くことを考えながら、おにぎりを食べている様子を表わす図。

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など

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