第98回 秋祭りの延期
公開日:2025年11月14日 08時30分
更新日:2025年11月14日 08時30分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
10月の第一土曜日は町内会の秋祭りの予定であった。
私は健康相談の医師として毎年参加してきた。
今年の10月4日。NHK朝の連続テレビ小説を見ながら髭を剃っていた。
テレビのドラマは小泉八雲の話であるらしいが、未だに八雲は登場してない。
外は小雨が降り出したらしかった。窓ガラスに水滴が点線を描いて這っていた。
雨が降り出すと私の心は躍る。
幸せを運んできてくれる予感がする。
雨降りが好きになったのは私の幼児期の体験にある。明けても暮れても畑にいた母が、雨の日には家にいて、滅多に作らぬおやつを作ってくれたからである。
電話が鳴った。
組長さんからの電話であった。
私は20年ほど前からお祭りに出て「健康相談」の旗を掲げて秋の午前中をおでんを食べながら過ごしてきた。
健康相談といっても参加者は、私以外は健康である。
私の役割は看護師が血圧測定するのを傍らで眺めているだけである。
私は町内の長老たちと祭りの一角に机を置いて世間話をして1時間を過ごす。役員たちが私の健康状態を聞きたがる。
祭りの前日には組長さんが子供会の保護者を指揮しておでんを作る。
子供たちはお神輿を担いで組の中を巡回する。この時だけわが町内会は賑やかになる。
子供の成長につれて保護者会のメンバーは変わる。町内会の役員たちも交代する。
私だけが変わらない。20数年、誰も相談にこない健康相談を担当し続けて今に至った。
窓を打つ雨粒が筋になって窓ガラスを伝わっていた。
電話が鳴ったのはNHKの8時からの番組が始まって5分過ぎた頃であった。
私はテレビの音を小さくして電話をとった。
「お祭りは雨天順延にして、明日挙行する」という電話であった。
電話を終えてテレビの音を元に戻した。その時、喧(やかま)しい音が聞こえた。
その音はテレビの音を小さくしても鳴り響いていた。テレビの電源を切ってみたが、音源不審の騒音は鳴り響いていた。
途方に暮れた私が、電気屋に電話をすると携帯電話に出てくれた。
「テレビから不審な音が出て止まない。どうしたらいいのだろう」というと、彼はしばらく思案して「どんな音ですか?」と聞くので受話器を耳から離して聞かせた。
「何も聞こえませんけどね」というのでテレビに近づけると「わかりました、何でしょうね?」と言って、「通勤途中ですので10分後に伺います」といってくれた。
私は念のためにもう一度テレビの音源を抜いてみたが相変わらず振動音に似た音は鳴り響いていた。
コードを抜いても音を出し続けるテレビに私は恐れを感じた。
私は居間を出た。何故か私が部屋を出れば鳴りやむのではないかと思った。私に対する恨みの音かもしれないと思ったのだ。しかし居間を出ても怨念の音に変化はなかった。
電気屋が来るまでの辛抱だと思った。
医者を待つ気分だった。
ふとテレビの横の椅子の上にある電気カミソリが目に入った。
電気カミソリが身を震わせながら音を出していた。なんと音源は電気カミソリであったのだ。
髭剃り途中に電話あったので電源をオンにしたまま電話に出たのであった。
電気カミソリは音を出して主人の御帰還を待っていたのだった。
カミソリの電源を切ると部屋は静かになった。
雨が激しくなって、窓を打っていた。

(イラスト:茶畑和也)
著者

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など