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第24回 介護施設で嫌われるのは

公開日:2019年9月 6日 09時00分
更新日:2019年9月 6日 09時00分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


私は国立大学に勤めていた頃は秘書がいた。
秘書の段取りに従って行動をしていた。
秘書は人間関係の交通整理をしてくれていた。
初対面の人に会うときは先方の情報を教えてくれて、こちらの立場も先方に説明してあった。
私は自分の立場を自分で説明する必要はなかった。
日程調整、書類の整理、面会予定など手際よく整理されていて私は秘書に従って動いていれば間違いはなかった。

私立大学へ移ってからは秘書のいない生活を送っている。
今朝も隣の研究室の先生がトナーはいりませんか?と言ってくれた。新しいプリンターを購入したので古い機種に使っていたトナーが不要になったのだという。
私は喜んで頂いたが、私の機種には合わないものだった。
機種に合わないトナーは使いようがないことを知った。
秘書がいないと不都合が多い。

私は毎日7階にある研究室を出て1階にあるメールボックスまでいって郵便物を抱えて戻ってくる。
ほとんどの郵便物は捨てるのだが中には重要な案件も混じっている。毎日、1時間ほどかけて整理する。
私の今の仕事のほとんどは以前は秘書がやっていた仕事である。

重要な案件はその場で片付ける習慣にしている。
「また後で」と、先延ばしにした案件は必ず忘れてしまうことを学習したからである。
スケジュール表に日程を載せて、必要な通知は直ぐに連絡して、必ずその場で作業を終わらせている。
「人は忘れたことは思い出せない」のでそうしている。

昨日の午後、かつて勤務していた国立大学の口腔外科へ歯の治療を受けにいった。
診療の前に受付で保険証のチェックをしていた。
私はいつものように保険証を出した。
受付の若くて鼻筋の通った女性が「保険証の期限が切れています」と言った。
私は「どうして?」と聞くと「7月31日が期限です。新しい保険証が届いていませんか?」と聞かれたので「届いていない!」と私は憮然として言った。

私はきちんとチェックしている自信があるのでそう言ったのだ。
それでもその女性は「今月中にもう1回、来院しますか?」と聞いて「次回持ってくるように」と言った。
私は「今月中に来るかどうかなんてわからん」と不機嫌な顔をして言った。
女性は「それではお金を支払うときに受付と相談してください」と古い保険証を突き返して黙ってしまった。
私は腹が立った。
いくら昔であったとはいえ、ここに勤めていたことがある医者にその仕打ちはないだろうと声には出さなかったが、そう思った。
人は、何か事件が起こると過去の自分を引き合いに出したくなるものだ。
私は不機嫌な顔をしてその場を離れた。
女性も私の不機嫌さに納得できていない様子だった。

その場を離れて口腔外科の前で座っていたが、私の中から次第に怒りの感情が沸いてきた。
私はこの怒りを誰かにぶつけたくなった。
しかしその前に念のためにもう一度保険証を確かめようと思った。
財布を調べて見ると、新しい保険証が入っていた。
新しい保険証が届いたその日に財布の名刺入れの場所にしまっておいたのだった。
あまりにも手早く片付けていたのですっかり忘れていたのだ。

私は怒りを爆発させる寸前に踏みとどまった。
新しい保険証を持って先ほどの女性の所へ行った。
彼女は「良かったですね」と温かい顔をしていた。
先ほどの冷たい表情が嘘のようだった。
私は恥ずかしくなった。

医者は介護施設で嫌われる職業の一つであるという。
「そりゃ嫌われるわな」と、我ながら納得した。
医者以外でもう一つの嫌われる職業は大学教授であるという。
私は医者で大学教授だ。

図:老いをみるまなざし_第24回介護施設で嫌われるのは_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数

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