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第58回 特別養護老人ホームの偽患者

公開日:2022年7月 1日 09時00分
更新日:2022年7月 1日 09時00分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


川の畔に建っている特別養護老人ホームの理事になって20年になる。
1年に2回理事会があって毎回欠かさずに参加してきた。
今年の理事会は5月の第2土曜日の午後であった。
川の土手を走ると小雨が車のウインドウに当たって鈴鹿山脈が煙って見えた。

老人ホームの駐車場で車を降りて玄関で靴を脱ぎ廊下を通って会議場へ向かった。
会議は施設の3階で行なわれる予定であった。
玄関を入って受付を済ませてエレベーターまで200メートルほどの距離がある。
通路脇に広い部屋があってデイサービスに通っている老人たちがいた。
職員が通路から利用者を見渡せる配置になっている。
長い机の前の椅子に20名ほどが腰を下ろしていた。
大学の学生たちであれば話し声が騒々しくて「黙れ!!」と、どなりたくなるはずであるが、その部屋は静かで話し声がなかった。
患者たちは全員が頭を垂れて椅子に座っていた。コロナの為に人と人との間には無人の椅子が置かれていた。

豪華なソファが目についた。
通路から4メートルほどの位置に置かれており、利用者たちのいる椅子の横にあった。
私が老人ホームに着いたのは理事会の開始の45分ほど前であった。
会議室へ入るには早すぎると思ったので、空いていたソファに腰を下ろして患者たちを眺めることにした。

理事長が目の前の通路を通った。周囲を見回しながら悠然と歩いて行った。
私は会議出席のために背広を着ていた。
背広を着た品のいい老人は私一人で、老人施設の患者たちの中では異色性を醸し出しているはずであり、私に気が付く筈だと思っていた。
しかし部屋全体を見回した理事長の視線は私を横切ったが「イグチ先生」だと気が付かなかった。

以前から知っている男性の職員が食器の後片付けをしながらおやつを配っていた。私の座っている傍に近寄ってきて長い机を拭いた。
私は挨拶のタイミングを計っていたが彼の流れ作業に節目は無く、挨拶の機会はないまま私の傍から離れていった。彼は私の存在に気づかなかったのだ。

会議に参加する予定の顔馴染みの理事が通過した。
周辺を見ながら歩いていたので私も視界に入っていた筈であるが、「あ!!イグチ先生」とは言わなかった。
10分間、腰かけていたが、私に気づく理事も職員もいなかった。
大学の構内であればきっと私に気がつくはずだ。
そう思って、思い当たった。
私は老人施設の患者風景に溶け込んでいて何の違和感もなかったのだ。
私は老人施設の患者に相応しい老人であったのだ。

図:老いをみるまなざし_第58回_特別養護老人ホームの偽患者_ソファに座る様子を表す図。

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」(いずれも風媒社)など

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