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第18回 正月明けの糖尿病患者

公開日:2019年3月 1日 09:00
更新日:2019年2月26日 17:35

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


毎年のことであるが、正月明けの外来に来る糖尿病患者たちの表情は明るくない。
年末年始に家でゴロゴロして運動もせずに、ご馳走を食べて過ごすからである。
「食べちゃった後悔」にさいなまれるのである。

正月明けのクリニックへきた68歳の女性のSさんも「血糖が上がっているのが心配でした。」
と言った。
「どうして?」と私が聞くと
「だってたくさん美味しいものを食べてきたんですもの」
「どこで?」
「香港へ旅行してたんです。中華料理いっぱい食べたんです」
と言った。
香港へ年末にツアーで旅行してきたのだそうだ。

私は思わず「僕も香港へ行ってたんよ!」と言った。
私たち夫婦も年末年始に3泊4日のツアーで香港へ行ってきた。
香港のホテルでゆっくりと年末年始を過ごそうと思ったのだった。

私たち夫婦は毎年慌ただしい年末年始を過ごしてきた。
私は未だにクリニックで外来を診ているし、妻は小児科の開業医である。
毎年12月29日まで二人とも働いている。
正月には孫たちが我が家へ集まるのが例年の行事になっている。

門松を用意しなければならないし、年末にはおせち料理も心配しなくていけない。
家族10人分の料理の用意が必要である。
年賀状も書かなければならない。
あれやこれやで慌ただしい。
たまにはのんびりした正月を過ごそうと海外旅行を企んだのだった。
忙しい日本を逃れて香港へ行けば、きっとゆっくり過ごせるだろうと、旅行の日程も確かめずにスーパーの片隅の旅行代理店で、言われるままのツアーに出かけたのだった。
年末年始の香港ツアーの料金は割高だった。

12月31日に中部国際空港から香港へ行った。香港は人で溢れていた。ホテルも忙しそうで私たちは午後の5時に着いたのに、部屋の掃除ができていないそうで直ぐには入室できずにロビーの脇のカフェで待たされた。
私たちは旅の始めからすっかり疲れてしまった。

大晦日をホテルでゆっくり過ごすには翌朝が早かった。
翌朝は6時30分から朝食であった。
それからバスに乗って観光地を回った。バスを降りるとひたすら歩いた。夜は屋根のないバスに乗って夜景見物である。

ツアーの客は総勢10名ほどで中には高校生の男の子もいた。
少しでも気を抜くとたちまち人混みの中で迷子になってしまう。
ツアーは驚くほどに小刻みで、時間に正確で、客たちは律儀であった。
私は他の客に迷惑をかけないように、遅れないように必死で歩いた。
腰に着けていた万歩計は毎日1万5千歩を超えた。

正月明けの外来にきたSさんの糖尿病は、彼女の予想に反してすっかり改善していた。
「どうしてかしら?」と彼女は言った。
私はすかさず言った。「沢山歩いたでしょう」。
「そうなんですよ!毎日2万歩も歩いたんですよ。大変だったんですよ」と彼女は言った。
彼女も香港のツアーに連れられて歩き回ってきたのだった。

私たちの年末年始はゆっくり過ごすどころか、慌ただしくて大忙しで、息が切れる日々だった。
それは糖尿病患者の運動療法にもなっていたのだった。

図:老いをみるまなざし_第18回正月明けの糖尿病患者_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数

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