第95回 潜在記憶―電気屋のお兄ちゃんの記憶力―
公開日:2025年8月 8日 08時50分
更新日:2025年8月 8日 08時50分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
朝、8時30分に家を出て大学の近くのコンビニに寄り、新聞を買い、家に送られてきた請求書を見ながらカードで決済をする。
私は二つの銀行のカードを使っている。
カードの暗証番号は今のところ覚えている。
カード以外に私が記憶している番号は家の電話番号と携帯電話の番号である。
クリニックの電子カルテの暗証記号は覚えやすいものにしている。週に1回通っている病院の暗証番号は紙に書いてある。
家の郵便番号は覚えている。
勤務先の郵便番号は知らない。覚える気もない。
その他に様々な番号がある。
我が家の電気製品の全てに暗証番号が付いている。
驚異的な記憶力の持ち主がいる。
近くの電気屋のお兄さんである。
彼は全ての機器の暗証番号を覚えているのではないかと私は思っている。
数年前に買ったパソコンの番号を私はすっかり忘れてしまっていたことがあった。パソコンに番号があることすら知らなかったのである。途方に暮れていると彼が何気なく教えてくれたことがあった。
5年も前に客に売った商品の番号を覚えていたのである。
彼は私の購買した機器の全てのの番号を覚えているらしいのだ。
「らしい」と書くのは、「全ての機器の番号を覚えているの?」という私の質問にはっきりとは肯定も否定もしないからである。
客の電気製品の全ての番号を覚えていてはまずいこともあるのだろう。
あらぬ疑いをかけられかねないので、彼は覚えていないフリをしているのだと私は推察している。
彼の学生時代にはさぞかし勉強ができたであろうと思ったが、本人が言うには、そうでもないらしい。
記憶力を生かした職業に就いた形跡はなく、親父の跡を継いで電気屋を家業にしている。
私はこの頃何でも忘れてしまう。物忘れに怯えるこの頃である。
しかし不思議なことに眠れぬ夜は次々に昔の記憶が蘇る。すっかり忘れ去った過去の記憶が昨日のことにように蘇るから、私の脳には過去の経験が残っているらしい。
人間は全ての記憶を脳に蓄えているという学説がある。
心理学者であるエリザベスとジェフリーが心理学者を対象とした調査によれば84%の人が自分たちの脳は、自分の記憶のすべてを完全に記録していると信じているという結果だったという。
そういわれてみれば私は無意識のうちに過去の出来事を脳の中に探そうとする。
思い出せないのは貯えてある記憶にアクセスできないからだと思っている。
言い換えれば、思い出す力がそこまで届かないということなのだ。
老人の記憶障害は、存在している記憶を引き出せないだけなのだろう。
私にだって電気屋のお兄ちゃんと同じように過去の経験は蓄えられている筈である。
ただ、思い出す力が足りないだけなのである。

(イラスト:茶畑和也)
著者

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」(いずれも風媒社)など