健康長寿ネット

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第7回 折り梅

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授


久しぶりの友人に会うと「あなたは毎日大学へ出かけているのですか?」と、必ず聞かれる。私は毎日大学へ出ていく。休暇中であって講義がなくても大学へ出かけて行き、自分の研究室で休んで帰ってくる。
自宅から国道1号線に出て豊明団地を抜けて、豊明市の市内を通り大学へ通っている。
豊明団地は巨大な団地で30棟以上のマンション群がある。中には広場があり、公園があり、スーパーもある。
最近では団地は空き家が多くなり公園には人影はない。街路にも人を見ることはない。
団地を抜けると、住宅街がある。数十年前に中流のサラリーマンが購買して建てた街である。
そこは「折り梅」の舞台になった街である。
「折り梅」という映画がある。豊明市の主婦の脚本で豊明市でロケを行った作品である。アルツハイマー病の女性を描いた名作だ。松井久子さんが監督で吉行和子さんがアルツハイマー病の主人公を演じている。アルツハイマー病の症状が初期から末期までリアルに描かれている。
2002年に公開された。2003年に日本老年学会が私が会長で名古屋で開催されたが、その学会で松井久子監督を講演にお願いした。
学会の打ち上げに松井監督や吉行和子さんと食事をしたことを覚えている。主役を演じていた吉行さんが若くて眩しく見えた。
私は現在の大学へ移ってきてから、学生たちの講義で「折り梅」を見せている。認知症を理解させるには格好の教材であるからである。
映画には私が通勤途上で見慣れた景色や街路、家並みが出てくる。住宅街の坂道を通る時は原田美枝子さんが演じた嫁さんが、自転車に乗って腰を浮かせてさっそうと走る姿がでてくる。老婆の描いた絵が絵画展に入賞したことを知らせる場面である。
姑と嫁の和解と共存の物語である。
映画には名古屋の方言や、いかにもこの地方に存在しそうな嫌味な叔母さんや、物見高い奥さんたちが出てくる。
「折り梅」に描かれていた社会は20年前の郊外だった。あの頃の街には隣近所の騒がしさがあった。いじわるおばさんや親切なパン屋があった。

今、その街を通るとあの頃の賑やかさはない。
街の中は静かである。
あの街の人たちはどこかへ消えてしまったようだ。
豊明市内を抜けて大学へ向かう国道を右へ曲がった所に和風の料理屋がある。私は昼食にその店へ寄った。
高級そうな店で料理の値段も高い。森の一部を切り取った場所で背後に竹の林が茂っている。
店は混んでいた。店の客のほとんどが団塊の世代の人たちに見えた。若者はいなかったが店の中の雰囲気に暗さはなかった。
私が抜けてきた団地や住宅街の住人たちが集まっているようだった。あの「折り梅」の原田美枝子さんが演じた嫁さんたちの世代だ。
彼女らの夫は定年を迎え昼時にはこのようなしゃれたレストランで夫婦でランチをするようになったらしい。
彼らも吉行さんが演じた老人の世代に入ったのだ。
しかし彼らの会話は、若者のようにからからと明るかった。「折り梅」の頃の老人の惨めさはなかった。
これから迎える超高齢社会を前にして、どこか開き直った素直さがあった。
新しい老人の社会の到来を予感させる店の雰囲気であった。

図:老いをみるまなざし_第7回折り梅_挿絵

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者 井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2007年より現職。名古屋大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで ―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中で」(いずれも風媒社)など著書多数

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