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第102回 迷子―おとぎの国―

公開日:2026年3月13日 08時40分
更新日:2026年3月13日 09時14分

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師


2025年12月のある日、クリニックの午前中の診察を終えて帰路についた。風は冷たかったが、車の中は冬の太陽で暖かかった。
私の住んでいる緑区は丘を造成して作った新興住宅街が多い。
未知の街を探検したくなった。
カーナビが家まで連れ帰ってくれるので道に迷う心配はない。

国道1号線を右折して3分ほど走った狭い道路を右に入った。経験したことのない場所である。
5分ほど走ると道幅が更に狭くなり、坂道になった。
街は、小さな家並と一方通行の狭い道路でできていた。
我が家を目的地としたカーナビに従って行くと、人家の門に突き当たった。
どうやらカーナビが頼りにならない地域であるらしいことが分かった。
俄かに不安になった。
道幅は狭くUターンは出来なかった。
車1台分の幅しかない狭い道路をミラーを頼りにゆっくりとバックした。
右側の後ろのドアが何かに触れたような気がした。後方から車が来るまでにT字路の分岐点に戻らなければならないと焦っていたので、車を降りて確かめる余裕はなかった。
バックしながら「こんな無駄なことをしている時間はない筈だ」と思った。そして、「お前の人生は無駄なことばかりだった」とささやく声がした。
T字路に戻って左に進むと対向車が向かってきて50メートルほど手前に止まった。道幅は狭く、すれ違いができる状況ではなかった。
運転手が私を睨みつけていた。私は車をおいて逃げ出したくなった。
左側に偶然あった空き地に乗り入れると対向車の主が私を睨んで通り過ぎた。
空き地はUターンするほどの広さはなく、前方に進むしかなかった。
対向車が来ないことを願った。

東西南北が分からなくなった。
伊那谷に暮らしていた頃は方角を間違えることはなかった。
西に中央アルプスが東には南アルプスがあって、天竜川は北から南に流れていた。
濃尾平野の真ん中の造成新興住宅街からは山脈は見えないし川は流れていない。
私は故郷に帰りたくなった。
迷路のような小路を対向車に遭遇しないことを願いながら、おそるおそる走った。

池の畔に出た。初めて見た池であると思った。おとぎの国の世界にでもあるような池を回るとT字路に出た。その先には幻に浮かぶように電気屋が見えた。
電気屋の看板を見ると脳を覆っていた霧が晴れてきた。
目の前にあるのはおとぎの国の電気屋ではなく、行きつけのコジマ電機店であることが分かった。
麻酔から覚める過程に似ていた。
初めて見たと思った池は、我が家の近くにある地蔵池であった。
家の車庫にたどり着くと「おとぎの国から生還した」と思った。

後日、車の損傷の修理に19万8千円請求されて現実に起こった事件であったことを思い知ることになった。

車でおとぎの国を探検する著者が、道に迷っている様子を表した図。

(イラスト:茶畑和也)

著者

写真:筆者_井口昭久先生

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師

1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。

著書

「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」「老いを見るまなざし―老いは神の呪いか恩寵か」(いずれも風媒社)など

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