第108回 戦後のお風呂事情
公開日:2026年9月11日 08時30分
更新日:2026年9月11日 08時30分
井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
最近の熊本地震で被災者が「お風呂に3日間もはいっていない」と嘆いているのをテレビで見た。
現代の日本人はどのくらいの頻度で風呂に入っているのか、ネットで調べてみた。78%がほぼ毎日お風呂に入るそうである。
私は第二次世界大戦の終戦直後の日本の農村のお風呂を体験した最後の世代である。
記憶が消えてしまわないうちに、幼かった頃のお風呂の様子を書き残しておこうと思う。
昭和20年代の初めで、信州の田舎でも戦争の傷跡が残っていた頃のことである。
大仕事であったので各家庭で毎日風呂を沸かすことはなかった。
時間と燃料の節約のために隣近所で順番に風呂を沸かして共有した。
この風習を「もらい風呂」と言った。ウィキペディアによると江戸後期から広く行われていた生活の知恵であり、地域の人々の情報交換の場でもあったらしい。
我が家で風呂を沸かした日には「お風呂を沸かしたので入りにきてください」と隣組の家に言って回るのが幼い私の役割であった。
伝言に行くとお婆さんが赤砂糖を新聞の広告に包んで「おだちん」としてくれた。
戦後の時代に砂糖は貴重品であった。
私はざらざらとした舌ざわりの赤砂糖をなめるのが好きだった。
隣家は茅葺(かやぶき)の大きな家であったが、戦争に行った長男はシベリアに抑留されていて未だ帰還していなかった。
他所の家に誘われた日には夕食をすましてから母親に連れられて風呂を沸かした家に行った。
数人が集まって入浴の順番を待っていた。
風呂は家の入口にあり、何故か家の外にあった。
水道は普及していなかったので井戸から水をくみ上げてバケツに入れて風呂に運んだ。
風呂はかまどの上に鉄釜を据え、その上に樽状の桶を置き、浮き板を踏み沈めて湯に入った。五右衛門風呂と言った。
風呂場を灯す電灯はなく、薄暗がりの中で体を洗った。
大勢の農民が入浴した後の湯には垢が浮いていた。
終戦から数年経ていたが戦争の恐怖は残っていた。
夜に飛行機の音がすると家じゅうの電灯を消した。
米軍の爆撃機であったB29の襲来に怯えていたのである。
私の父親は昭和19年に戦死しており、私は戦争未亡人となった母親と祖父の3人で暮らしていた。
母親は、20歳頃であったと思う。いつも最後の風呂にはいるのだった。
日本人が戦災の記憶が薄れ元気を取り戻した時期は、風呂場に電灯が付いた頃である。

(イラスト:茶畑和也)
著者

井口 昭久(いぐち あきひさ)
愛知淑徳大学クリニック医師
1943年生まれ。名古屋大学医学部卒業、名古屋大学医学部老年科教授、名古屋大学医学部附属病院長、日本老年医学会会長などを歴任、2024年より現職。名古屋大学名誉教授、愛知淑徳大学名誉教授。
著書
「これからの老年学」(名古屋大学出版)、「やがて可笑しき老年期―ドクター井口のつぶやき」「"老い"のかたわらで―ドクター井口のほのぼの人生」「旅の途中でードクター井口の人生いろいろ」「誰も老人を経験していない―ドクター井口のひとりごと」「<老い>という贈り物-ドクター井口の生活と意見」「老いを見るまなざし―ドクター井口のちょっと一言」「老いを見るまなざし―老いは神の呪いか恩寵か」(いずれも風媒社)など